(1)チームに必要な9つのタイプ

【引用】
ベルビン(Meredith Belbin)のチームロールモデル  
チームワーク理論の権威、第1人者のメルビンは
「成功するチームの勝因として、理想的なチームには9つの役割を担うメンバーが必要」
と説いている。

▼チームにおける9つの価値ある役割

1.PL:プラント(Plant)
発明家、アイディアマン、
創造力とオリジナリティで、困難な問題を解決できる人


2.RI:情報収集者(Resource Investigator)
コミュニケーションがうまく、外交的で情熱があり、
好機を探る(探れる)人


3.CD:コーディネーター(Coordinator)
良き議事進行者(議長)で、
自信に満ち、目標を明確に示し意思決定を促すことができる人


4.SH:形づくる人(Shaper)
緊張状態でも挑戦的で、ダイナミックに障害に立ち向かい解決できる人


5.TW:チームワーカー(Team Worker)
知覚に鋭く聞き上手で、協調性があり、摩擦を避けるタイプの人


6.IM:着実な実行者(Implementer)
信頼性があり、有能で頼りがいがあり、アイデアを着実に実行に移せる人


7.CF:完璧完遂者(Complete Finisher)
間違いや手落ちも見つけながら、誠実熱心に、仕事を時間通りに行う人


8.SP:スペシャリスト(Specialist)
特定分野の知識、スキル、ノウハウをもつエキスパート、専門家


9.ME:モニター(Monitor Evaluator)
冷静な観察者、優れた戦略的判断力持つ人
【引用終わり】

多様な人が繋がるということ。
それはチームには欠かせないこと。
誰かと自分を比べて、自己肯定感が下がりがちなことだってある。
しかし、その人に自分はなれない。
同じようにその人も自分にはなれないのだ。
自分はチームの中でどんな役割を担っていくのか?
そのような観点で集団を見ることができた時、
自己肯定感と共にチーム力も上がっていくのだろう。
自分がどのタイプなのか?
そして、相手がどんなタイプなのか?
その多様性がチームを育む。
まさに、「違う」ということが強みになるのだ。




(2)教師の成長「3ステップ」

最近見えてきたこと。
それは「成長には三段階のステップがある」ということ。


第一段階。
自分の核になる理念を探し求める段階。


自分が何を思い、何を目指し、何に向かって歩むべきかを模索する段階。
自分が自分たる所以を確立するために大切な時期である。
この時期はとにかく、多くのインプットとアウトプットを繰り返すことが必要となる。
あらゆるものの考え方にふれ、それを自分なりに咀嚼していく。
それを通じて、自分自身の「核」となる部分が見えてくるのだ。


第二段階。
周りとぶつかりながら、自分自身の核を磨いていく段階


自分が貫きたい「核」をさらに磨いていく段階。
しかし、第一段階とは違い、ここでは周りとの調和が難しくなる。
第一段階では、多くの方々の実践を受け入れ、自分なりに噛み砕く。
しかし、第二段階では、それらをいったん削ぎ落とし、自分の考えを貫く必要があるのだ。
「これだ!」
というものをもつ。
これは大切なことだ。
しかし、それは
「これ以外は受け入れない」という意思表示をすることにも繋がりかねない。
自分にはそんな気はなくとも、相手にそのように受け取られてしまうこともあるのだ。
しかし、「これだ」と思うものをひたすら磨く時間は必要だ。
周りとぶつかり、反省し、また突き進む。
その繰り返しの中で自分の「核」は磨かれていくのだ。


第三段階。
周りと調和しながら、自分の核を貫き続ける段階。



周りと調和する。
これは自分が尊敬する多くの方々の共通点だ。
頭ではわかっている。しかし、なかなかできないのだ。
周りとは違う。突っぱねる。それが自分らしさだ。
などと勘違いした時期もあった。
しかし、最近はそれから抜け出しつつあると感じる。
「ありがとうございます」
と常に感謝の心を忘れず、常に笑顔でいること。
相手を否定することなく、自分自身を保ち続けること。
これが自然にできるようになったら第三段階なのだと思う。
しかし、自分が今まで見てきたなかで、第二段階を超えて、いきなり第三段階にいたる人もいる。それはその人の人徳なのだと思う。

さて、どこまで自分が伸ばせるか。
楽しみである。



(3)手を差し伸べる教師 2つのタイプ

最近感じていること。
それはこの世には「押し上げる教師」と「引っ張り上げる教師」という二通りがあるということ。
「押し上げる教師」はとことん子どもたちに寄り添う。懸命に抱きかかえ、一歩上の階段を這い上がらせる。何をすればこの段差を乗り越えることができるか?それにとことん向き合い、子どもたちを一段一段押し上げていく。
「引っぱりあげる教師」は段の上で待つ。そして、子どもたちが一歩上の段階へ上りたいと手を伸ばし、挑戦し始めたとき、手を握る。そしてひっぱりあげる。
どちらが優れているというわけではない。「押し上げる教師」の良い所は子どもとの距離が常に近いこと。それによる安心感が子どもたちを成長させていく。しかし、自ら手を伸ばし、段差を上ろうとしない子の場合、教師の負担は大きくなる。どんなに押し上げても最終的によじ上るのは子どもたちだから。
「引っぱりあげる教師」は段の上にいる。だからこそ「あそこにいけば良い」という目標が明確だ。学び手が「どうすれば手が届くか?」を真剣に考え始める。自ら手を伸ばし伸びようとした時、必ずそこに支えてくれる教師がいる。
しかし、「押し上げる教師」と悩みは同じ。自ら手を伸ばそうとせずにしゃがみ込む子を、教師は引っぱりあげることはできないのだ。
「押し上げる教師」「引っ張り上げる教師」
タイプは分かれるが、結局は「子どもたち自身が手を伸ばす意志」をいかに耕していくかが重要なのだ。どんなに「上り方(やり方)」を教えても最終的にそれをもとに子どもたちが学び続ける意志(手を伸ばす意志)をもたなければ成長は生まれない。
大切なのは自分がどちらのタイプなのかを理解することなのだろう。
一人の教師が同時に「押し上げながら、引き上げること」はできない。
自分ができないことを補ってくれる人が近くにいること。
そしてお互いに多様性を認め合い、お互いに学びを得ることなのだろう。
そんなことを感じる今日この頃。



(4)光を放つ教師。3つのタイプ。

今までたくさんの先生方を見てきた。
魅力的な先生方は皆、光を放っている。 
しかし、その光の放ち方には違いがあるな。
そんなことを感じていた。
その光の放ち方には3つのタイプがあるようだ。  

一つ目は「スポットライトタイプ」 
スポットライトのように強い光を発する。 
周りを強い光で包み込み、強力な推進力で集団を動かしていく。 
この光に照らされた者は、その強い光によって大きく動きだす。

しかし、皮肉なことにその強力な光は濃厚な陰も作り出す。
光が強ければ強いほど陰は暗く、濃くなっていくのだ。 
また、その人がいなくなった時、一気に闇が訪れる。 
光に頼って行動していた集団は一気に道標を見失う。
力がある先生が異動した途端、理念が失われるのはまさにこの現象だろう。

二つ目のタイプは「間接照明」タイプ。
スポットライトほどの明るさはない。
周りを温め、ぼんやりと暖かく包み込む。 
この人の周りでは、ゆったりとした時間が流れる。

スポットライトのように、消えても突然闇になるわけではない。
その人がいなくなっても戸惑いは少ないだろう。 
しかし、スポットライトほどの強力な光ではないため、集団の道標とはならない。 
ぼんやりと暖かく包み込むことはできるが、集団をグッと前進させるものではないのだ

三つ目のタイプ。 
それは「ろうそくタイプ」だ。 
「ろうそく」は前者とは質を全く異にする。
なぜならば、ろうそくの火は燃え移るからだ。
自分が相手を照らすだけではなく、相手の心に灯をつくりだすのだ。

「すばらしい教師とはどんな教師ですか?」 
昔私が尊敬する先生に聞いたことがある。 
その先生はこう言った。 
「子どもの心に火(灯)をつける教師だ」と。

どんなに強力な光でも、どんなに暖かい光でも、消えてしまったらそれで終わりだ。 
私たち教師はいずれ消える運命にある。 
その時がイメージできるか?  

私たちは何を望むのか? 
「光が消えて、戸惑い恐れおののく姿」なのか? 
「なんとなく手探りに進んで行く姿」なのか?

いつまでも照らしてもらう側であってはならない。
子どもたちはいつか大人になる。 
その時、彼らは照らす側になるのだから。 
照らし、その熱を相手に残し、自分は消えていく。 
「教育」とはその繰り返しの連続なのだろう。

心に火(灯)をともしている子は強い。
なぜなら、常に足元を自分の力で照らすことができるから。
その小さな灯を相手の心に灯し、「火」へ「炎」と燃え上がらせていくことができるから。

「我々の育てたい人間とはどのような人間なのか?」 
「その人間が育つ環境をしっかりと整えることができているのか?」
教師はそこをもう一度問い直す必要がある。 

学校、教師という光が消えた時、彼らが何を頼りに生きていくのか? 
それをイメージできる人間だけが本物の「教師」となれるのだろう。



(5)研究授業のご指導 3つのタイプ 

研究授業の指導を聞いていると2つのタイプの指導が存在するなと感じる。

1つ目は足りない所をあれこれとあげつらうご指導。
いわゆる厳しいご指導。
2つ目はこまごまとした良い所をあげてほめて励まして終わるご指導。
いわゆる優しいご指導。

人間は「ほめられて伸びるタイプ」もいれば「厳しくされて育つタイプ」もいる。
そう考えると研究授業のあとにどんな言葉をかけるのか困るのかもしれない。1時間という切り取られた授業時間を、「いかに教えたか?」という教師中心の視点で見ていけば「厳しさ」「優しさ」の二者択一のはざまで悩む。
「厳しさ」「優しさ」という視点だけでは良い授業をつくりあげることは難しい。

自分が考えるに指導する立場の人にはもう一つの視点が必要なのでないか?

その視点とは「連続したものの一部として看取る」視点。


「授業をみる目」という言葉がある。
ではどのような人が「授業を見る目」があるといえるのか?
足りない所を見抜けること。人の目には見えない変化、すばらしさに気づけること。これらはどちらも「授業をみる目」に繋がっているだろう。
しかしそれは1時間という切り取られた時間にしか適用していない。

指導者には広く広く物事を見る目が必要とされるのではないか?
1時間、1単元、1学期、1年間…長い長い時間の中で子ども達が今どの段階に至っているのか?
それを即座に見抜くことができることが真の「授業をみる目」なのではないか?

一時間の授業を見て「良い」「悪い」は誰でも論じられる。
しかし、この子ども達は今どんな段階なのか?
それを看取り語ることができる教師は少ない。

集団が「形成期」なのか「混乱期」なのか「標準期」なのか「達成期」なのか?それを即座に見抜ける人こそが「みる目」がある教師なのではないか?
そのような目をもっている教師は必ずいる。
しかしその教師があまり表舞台に現れないのには理由がある。それは

子ども達の段階が見えない授業が研究授業として行われているから。
ダイナミックな交流がなければ集団の様子が見えてこない。
わずか5分程度のペア学習を活動として位置づけても、教室の奥底に流れる息づかいは聞こえてこない。


研究授業は「クラスの段階」を話し合う絶好の場面のはずだ。
それを「育っていない」といって教師主導の授業で覆い隠しては何も見えてこない。
研究授業だからこそ、課題を明確にしてダイナミックに交流しクラスの状況を看取る場にするべきなのではないか?
そのうえで指導者は語る。
今この集団がどんな状況であるのか?
その状況をさらに磨いていくには日々何をすべきか?
重箱の隅をつつくようなこまごまとした指導ではなく、広く長い視点を持って、明確に指を指す。
教師がいかに教えるかではなく、子ども集団をいかに磨くかを。


研究授業は担任がクラスの状況をじっと看取る時間。


そんな考えが浸透すれば、互いに授業を見合う時間が苦しいものではなくなる。
「やればいい」
「終わればいい」
そんな研究授業はもったいない。
授業者も、指導者もその1時間を「連続した一部」として感じ語り合う。
そんな価値観が生まれればなぁ。と日々思う。