学び続ける教師のまとめ

小学校教師雑記帳。 日々考えたことのまとめ。

まとめ

一斉指導至上主義からの脱却への考察(第二部)

一斉指導至上主義からの脱却への考察

第二部 学び続けていける授業を支えるもの

<目次> 

1、学び続けていける授業の構築は可能か?
2、学び続けていくために必要な条件とは?
(1)仲間がいること
(2)成長の実感ができること 
(3)失敗してもやり直せること
3、学び続ける授業を構築するために教師がしなくてはならないこととは?
4、「学び続けることの価値」をどう子どもに伝えていくのか?


1、学び続けていける授業の構築は可能か?
 
学び続ける授業を構築するには「思考の深まり」が必要不可欠です。
そして、それが深まり合い、つながり合うためには「良質なインプット」と、「前向きなアウトプット」が絶えず繰り返されていくことが大切です。

良質のインプットが前向きなアウトプットをうむ。 
そして前向きなアウトプットがインプットしたいという意欲につながる。 
この繰り返しが「思考の深まり」を営んで行くのです。

そのような授業をいかにつくりあげるか?
多くの教師はその大きな課題を「うまくコントロールする(上手に教えること)」によって乗り越えようとしました。
しかし、それはなかなかうまくはいかないものです。
それを乗り越えるためには教師が「いかに教えるか」から「いかに自立した学び手を育てるか」という価値転換を図る必要があります。
しかし、それはただの「ほったらかし型授業」に陥る危険性もはらんでいるのです。
これはどの教師であれば誰もがぶつかる壁なのではないでしょうか?
この壁にぶつかった教師は途方にくれます。
自立を目指しながらも自立を奪っている。
そんな矛盾に苛まれるからです。

では、このような状況に陥っても「学び続ける」授業の構築は可能なのでしょうか?

この答えに対する私の答えは「YES」です。
しかし、そのためには今まで日本で行われてきた学校教育という固定概念をもう一度ゼロベースに戻して思考することが必要です。
伝統や風習、歴史や経験から一度離れて、根本から「教育について」「人の学びについて」考えていくことで様々なことが見えてきます。
では、「学び続ける授業の構築」のために必要なものとはなんなのでしょうか?
以降はそれについて考えていきたいと思います。


2、学び続けていくために必要な条件とは?

学び続ける授業を構築するためにまず考えなければいけない問いがあります。
それは「人が学び続けていくためには何が必要か?」という問いです。

人はどういう時に学びが加速するのでしょうか?
人の学びはどういう時に失速するのでしょうか?
あきらめてしまう時と、もう一歩踏み出そうとする時。
両者の違いとはなんなのでしょうか?
人が自然にやり続けてしまう時に存在するものとはなんなのでしょうか?…
これらを明らかにしないことには、学び続けられる授業を創りあげることなどできないでしょう。

人が学び続ける力をつけるために必要なものは? 
自分自身の経験、人との対話、子どもたちとの日常の中での気づき…
様々なものをつなぎ合わせていくと必要なものが浮かび上がってきました。

学び続けていくために必要なこと。
それは
「自分自身に対する自信」です。

「自分に価値がない」
「やっても無駄だ」
自分自身に対してこのように感情を抱いてしまった時、人の歩みは止まってしまうものです。

「自分ならできるはずだ」
「自分も成長できるはず」
こう思えたならば、どんなにつらくても一歩踏み出すことができるでしょう。

しかし、誰もが常に自信をもって行動できるわけではありません。
誰でも恐れに縛られ、足が踏み出せなくなる時があります。
そんな時にも、人が一歩踏み出せる環境とはどんな環境なのでしょうか?


つまずいても、落ち込んでも「自分自身に対する自信」を失わずに学び続けていける。
そのために必要なのは3つあります。

それは
  
(1)仲間がいること 
(2)成長の実感があること 
(3)失敗してもやり直せること

この3つがあれば、人は自信を失わずに一歩踏み出せるのではないか?
私はそう考えました。
 


(1)仲間がいること

人は孤独に歩むことはできないものです。
自分のことを理解してくれて、温かい言葉をかけてくれる人が存在する。
それだけで人は自分自身に対する尊厳を保ち続けることができるのです。

いじめを受け、八方塞がりになった子が苦しんだ末に「死」を選ぶ。
これは人が孤独の中で生き抜くことの難しさを示しています。
人は弱いものです。
どんなに強い人であっても、心の中の悩みがいつのまにか増大し、飲み込まれていくこともあるでしょう。
その時、飲み込まれずに、踏みとどまり、前向きに学び続けられる自分であるか?
その明暗をわけるもの。その大切な一つが「仲間」の存在だと思うのです。

数年前、尊敬するある方からこのようなメールをいただきました。
《引用》
「巡り合えば知人となり
 語り合えば友となり
 共に汗を流せば仲間となる」

こんな言葉があります。
子どもたちにとって大切なものは数多くあるかと思いますが
「友」の存在は非常に重要です。
仲のいい友達や、ウマがあう親友も大切ですが
本当に大切なのは、同じ目標に立ち向かい切磋琢磨し合う
「盟友」であると考えています。
《引用終わり》

これはまさにそのとおりだなぁと感じます。
支えあって、共に汗を流した「仲間」がいること。
その仲間と言葉をかけあうことで、悩みに飲み込まれずに踏みとどまる力が生まれるのでしょう。

つらい時、苦しい時に声をかえてくれる仲間。
自分を認めてくれる仲間。
自分を叱ってくれる仲間。
そばにいてくれる仲間。

そういう存在がいること。
これが人が学び続けていくための大切なパーツの1つでしょう。 


(2)成長の実感ができること

人が学び続けるために必要な条件。
その2つめとしてあげられることは「成長の実感」でしょう。
前よりも自分が成長している。
それを感じられる人は、自然と次の学びへの一歩を踏み出します。

逆に成長が実感できない感じられなければ人の足は止まります。
いくらやっても意味がない。
自分にはできないんだ。
そう思った時人は絶望に陥ります。

ドストエフスキーは「死の家の記録」の中で、最もつらい拷問について語りました。
それは半日かけて穴を掘り、半日かけて掘った穴を埋める。
そんな生活を延々と繰り返すと人は発狂し、死に至るというのです。

人は意味のないこと、成長の感じられないこと、感謝もされないことが延々と繰り返されていくことに耐えられない生き物なのだ。
この例からそれがわかります。

自分が少しずつでも成長している。
自分の成長が誰かの役に立っている。
自分の行動が次の何かにつながっている。

そのように感じることができた時、人は学び続けることができるのでしょう。
このような理由から「成長の実感」は学び続けるためには欠かせないパーツの1つだということがわかります。 


(3)失敗してもやり直せること

仲間もいる。
一歩踏み出すことで成長する自分もイメージできる。
しかし、その一歩を踏み出す勇気が出ない。
誰もがそんな時を経験しているのではないでしょうか?
(1)仲間(2)成長の実感
という条件を満たしても一歩先へ踏み出せない。
その原因はなんなのでしょうか?

そこで人の学びをとめている原因。
それは 「恐怖」です。

 失敗したらどうしよう。 
できなかったらどうしよう。

このような考えが頭の中を支配した時、人の歩みは止まります。
仲間がどんなに
「やってみようよ」
「きみならできるよ」
と励まそうと、一歩踏み出せないものです。

このような状態に陥った時に一歩を踏み出す勇気をくれるものとはなんでしょうか?
それは「失敗してもやり直せる環境」です。

あなたは重要なプロジェクトを任されているとします。
どちらの言葉かけなら勇気をもって一歩踏み出せるでしょうか?

A 絶対失敗するなよ。失敗したらもうおしまいだ。絶対成功させろ!

B 怖がることはないよ。たとえ失敗しても取り返せる。思いっきり力を試しておいで!

Aの言葉かけは、失敗できないという恐怖が緊張を生み、体を固くします。
一方、Bの言葉かけは、安心して一歩を踏み出し、リラックスしながら自分の力を試すことができるでしょう。

偉大な発明家、エジソンが電球を発明した時のエピソードは有名です。
彼は何度失敗しても、「失敗ではない、それがうまくいかないということを発見したのだ」と語ったと伝えられています。
では、エジソンが失敗したことすら成功と捉えることができたのはなぜでしょうか? 

もちろんそれは何度も実験を繰り返すことができたからでしょう。 
仮説がたとえ間違っていても、実験がうまくいかなくても何度も挑戦できた。 
だからこそ、彼は常に一歩踏み出し続けられたのです。

「たった1回で結果を出しなさい」
このように言われたら人は恐怖で歩みを止めます。

「何度もやる中で、身につけていこうよ」
「間違っても大丈夫。チャンスはまだあるよ」

このように言葉をかけてもらえる環境。
それが人が学び続けていくために必要な最後のパーツです。


3、学び続ける授業を構築するために教師がしなくてはならないこととは?

(1)仲間がいること
(2)成長が実感できること 
(3)失敗してもやり直せること

これが存在するのが「学び続けていける」授業です。

そこに至るための「教師の役割」は2つあります。 
1つ目は、先ほどの「3つが存在する授業」を構築すること。 
子どもたちが学校で過ごす大半は授業です。
この時間で子どもたちに「学び続ける感覚」をつかませていく。
それが大切なのです。
子どもたちに話し合う場面も与えず、板書を写すのみで「仲間との関わり」を実感させることはできません。
ただ、席に座っているだけで時間が過ぎていく。そんな授業では「成長の実感」などできません。
失敗を失敗と認識できる。そんな場が授業にあるでしょうか?

教師は常にその視点をもって授業をつくっていかねばならないのです。
(具体的な授業づくりについては「学びのカリキュラムマネジメント」の章で詳しく説明します)



そしてもう1つ。
教師にしかできない大切なことがあります。
それは「学び続けていくことの価値を語り続けること」です。


「語る」とは「かた(ちづく)る」ことだと言われます。 
子どもたちにイメージできるように「形にして」「わかりやすく」語りかける。 
その営みなしに、ただ授業の構築のみを目指しても意味はありません。 
「教師の語り」抜きでは、どのような授業もすぐに「ほったらかし授業」に形を変えてしまうのです。 


4、「学び続けることの価値」をどう子どもに伝えていくのか?

しかし、ここで、大きな問題があります。 
それは
「学び続けることの価値」をどう子どもに伝えていくのか?
という問題です。

幼い子どもたちに「学び続けよう!」と直接的に語りかけてもても伝わりにくいものです。 
なぜなら、それは「大人側の言葉」だからです。

子どもたちは常に「今」を生きています。
それゆえ、子どもたちは具体的に未来を思い描けないのです。
それは当然です。
生きてきた経験が少ないのですから。
「今」という「点」をつなぎ合わせていく力。 
それが未来を感じ取る力なのです。

「未来を感じ取る力」
これは大人なら誰も獲得している能力です。 
「過去の経験」が長くなればなるほど「今」とつなげて物事を見ることができるのですから。 
そして、それは「今」から「未来」を見つめることに応用可能です。

常に「今」を生きている子どもたち。 
この子たちに、いかに「学び続ける授よう!」と熱く語っても伝わりません。
この言葉は幾多の苦労、試練、障壁を乗り越えた人のみが感じ取ることができる言葉なのです。

では、子どもたちに「学び続ける」ことの価値をどのように伝えていけばいいのでしょうか?  
この問いにぶつかったのは、私がはじめて小学校1年生を担任した時のことです。
中学校教師を経て、小学校教師になった私。
小学校でも高学年の担任経験しかありませんでした。

高学年、ましてや中学生にもなれば抽象的概念が伝わります。
彼らは彼らなりに経験を積んできています。 
彼らには「学び続けよう」という直接的表現で十分伝わったのです。  

しかし、小学校一年生にはそうはいきません。
「学び続けよう」
この言葉を何度語っても幼い彼らの頭には「?」が浮かぶのです。


「学び続ける」 
この言葉を小学校一年生にも伝わる言葉に置き換えて語らなければ…。 
私はそんな壁にぶつかりました。  
小学校一年生にも伝わる。 そして大人になってと使い続けられる言葉なんてあるのでしょうか?

何度も彼らと対話を重ねていくうちに、浮かび上がってきた言葉。
それが「かしこい」という言葉です。 
この言葉の素晴らしいところは、あらゆる概念が凝縮してつまっているところです。

先ほどまで述べてきた

歩みを止めずに学び続けられる人。 
仲間と共に歩みを進められる人。 
成長を自分の力に変えていける人。 
失敗しても再スタートがきれる人。  

これらはすべて「かしこい人」といえるのでしょう。

さらにすごいのはこの「かしこい」という言葉は1年生の子どもたちにも伝わる言葉なのです。 
 たとえ一年生であっても
「かしこくなろう!」
と言うとみんなが力強くうなずいてくれるのです。
「?」は生まれない。概念としてストンと落ちる言葉なのです。


「学び続ける」という価値を「かしこさ」と言葉に変換して伝える。
「教室という場はかしこくなる場」 
これを伝え続けることで子どもたちの心に「学び続けることの価値」を刻んでいくのです。 

 

(第三部 「かしこさ」は形にできるのか? へと続く ) 

一斉指導至上主義からの脱却への考察

一斉指導至上主義からの脱却への考察

第一部 つまらない授業とは何か?

<目次> 

1、学びが止まる原因
2、子どもたちはなぜ授業をつまらないと思うのか?
3、学校における「つまらない」授業とはどのような授業か?
4、なぜこれらの授業は子どもの学びを止めるのか?
5、教師は「つまらない」という壁をいかに乗り越えようとしたか?
6、「どうすればうまく教えられるか?」という考えの問題点


1、学びが止まる原因

入学前、ランドセルを背負った子どもたちの表情は輝いています。
早く学校に行きたい。
早く勉強をしたい。
早く友達をつくりたい。
どの子も学校での学びに憧れを感じ、やる気がみなぎっています。
しかし、そのキラキラした目もいつしか輝きを失っていくことが多々あります。

めんどくさいな。
行きたくないな。
やりたくないな。…

誰もがキラキラ輝かせた目が、死んだ目に変わってしまう。
そこには何があるのでしょうか?

人が死んだ目になる時、必ず存在する感情があります。
それは「つまらない」という感情です。
当然です。「つまらない」と思うことに対して目を輝かせて学ぶことができる人など皆無でしょう。

目を輝かせて学ぶ裏には必ず「楽しい」という感情があります。
「楽しさ」があれば人は学び続けていけるはずです。

しかし、人に与え続けられる「楽しさ」は長続きはしないものです。
おもちゃを買い与えられても、すぐに飽きてしまう子どものように。
与え続けられる「楽しさ」はいつしか「当たり前」へと質を変え、飽きてしまうのです。

しかし、自分の手でつくりだし、自分の心から湧き上がる「楽しさ」は違います。
これがある限り人は学び続けていけるでしょう。

では、「つまらない」という感情を退け、「楽しさ」を自らつくりだしていける授業は構築可能なのでしょうか?
このシンプルな問いに真っ向から考え抜いてみようと思います。
 


2、子どもたちはなぜ授業をつまらないと思うのか?

子どもたちは正直です。
つまらないと思った時、それは表情に、態度にはっきりと現れます。
中にははっきりと口に出して「つまんな〜い!」という子もいるでしょう。
では、子どもたちはどんな時に授業を「つまらない」と感じるのでしょうか?
実はこれは脳の能力によって大きく差があることが見えてきました。
ここでは「学力低位層」「学力上位層」「学力中位層」の3つに分けて考えてみたいと思います。


(1)学力低位層が「つまらない」と感じる時

学力低位層の子どもたちは抽象的なことを捉えるのが苦手です。
そのため、指示を聞いて、何をすればいいかを理解するのに時間がかかります。
授業のはじめはやる気があっても、徐々に学びが失速し、最終的には学びから逃走していまう。
そんなことがよく見られます。
私が以前もっていたKくんもそうでした。
教師が一緒にいて、何をするか丁寧に教えてあげるとやろうとします。
しかし、教師がその場から離れるととたんに学びを止めてしまうのです。

このような例からも学力低位の子が「つまらない」と感じ、学びを止めてしまう原因が浮かび上がってきます。
学力低位の子が「つまらない」と感じる大きな原因それは
「なにをやったらいいかわからない (指示が聞き取れない) 」
というものです。

これを解消するために、教師はわかりやすい説明をしようとしたり、個別に関わって援助したりします。
しかし、もちろんクラス全体を見ている教師がその子のみに寄り添い続けることはできません。
「何をやったらいいのかがわからない」
このような状態で、教師にも友達にも気付かれず学びから取り残された子はどうなっていくのでしょうか?
その状態が慢性化すると子どもたちは学びを「めんどくさいもの」と捉え始めます。
わけがわからないの学びを強要される日々では授業が「つまらないもの」と感じるのは当然でしょう。
「やりたくないのにやらされる(めんどくさい)」
これがつまらないと感じる大きな原因なのです。
 

(2) 学力上位層が「つまらない」と感じる時 

学力上位層の子どもたちは抽象的なことを頭の中で変換し、イメージをしていく能力が高いものです。
そのため、教師の求めた課題に対して自分なりの考えを導き出し、それを自分なりに表現することができます。
自分たちである程度のビジョンをもって学びを進めることができる。
それが学力上位層の特徴です。
しかし、そんな子たちでも授業が「つまらない」と感じる時があります。
それは果たしてどんな時なのでしょうか?

ある研究授業(算数)を参観した時のことです。
私の目の前には見るからに聡明な女の子が座っていました。
仮にAさんとしましょう。
教師が言いました。
「今日は◯○について考えてみようね。まずはノートに自分の考えを書いてみてね」

Aさんはノートに自分の考えを書き連ねます。
非常におもしろい考えです。
えんぴつは止まりません。時折宙を眺め、思考をまとめ、再びノートに向かいます。
「まだまだ書きたい」
そう思っているところでタイマーが鳴りました。教師が言います。

「はい。そこまで。鉛筆をおいてね。」

口惜しそうに鉛筆を置くAさん。
そこから、始まったのはノートの考えの発表大会です。
代わる代わる子どもたちが黒板の前に出て発表をします。
もちろんAさんも手をあげます。しかし、さされることはありません。
(後から聞いた話ですが、Aさんはクラスのエースなので、担任の先生が最後まで当てずにとっておいたとのことでした…)
手をあげても、さされない。
友達の発表に耳を傾ける時間が続きました。
あんなに自分の考えを表現できるAさんが次に鉛筆を手にしたのはいつか?
それは最後のまとめを写す時でした。
教師が書いたまとめを黒板を書き写す。
それが授業でAさんが2度目に鉛筆を手にとった時でした。


この授業を聞いて想像できるでしょうか?
学力上位層が授業を「つまらない」と感じる理由を。

彼らが授業をつまらないと思うのは
「やりたいことをおもいっきりやれない(おあずけ) 」
時なのです。

この授業の場面を読んで憤慨した方もいるかもしれません。
しかし、これはある意味仕方がないことなのです。
クラスの中には、(1)で述べたような課題の意図を読み取ることも難しい子もいるのです。
その子も含めて全員をしっかりと理解させるためには、どうしても「できる子」は待たされるものなのです。

もっとやりたい。
でも、やらせてもらえない。
鵜飼の鵜のような状態で日々過ごしていく中で「つまらない」という感情が醸成されていくのです。

(3)学力中位層が「つまらない」と感じる時

学力中位層は「できる」わけでもなく「それほどできない」わけではありません。
この子たちはどんな授業でもそれなりについていくことができます。
上位層のように「もっとやりたい!」
と思うわけでもなく、
低位層のように「全然わからない」と思うわけではないのです。
このくらいでいいや。
こんなもんでしょ。
と思いがちなのはこの層に多く見られます。
こういう子たちが授業を「つまらない」と思う原因は何か?

「それは自分の伸びが見えにくい」ということでしょう。

教師の目は「もっとやりたい」と思う上位層と教師がしっかり説明してあげないといけない低位層に注がれがちです。
だから、中位層の子は少々手を抜いても集団に紛れることができるのです。
やっていなくても許される。
全力でやらなくても見逃される。
そんな傾向があるのです。

こういう状況が続けば続くほど、学力中位層の子は授業に魅力を感じなくなっていきます。
これが学力中位層が授業を「つまらない」と感じる原因です。
 


3、学校における「つまらない」授業とはどのような授業か?
次に、今日の学校教育において教室ではどのような授業が行われているかについて考えていきたいと思います。
今までたくさんの授業を見てきて子どもたちがの学びが止まる授業、
すなわち「つまらない」と感じる授業は大きく分けて4種類にわけられそうだと感じます。
その4種類とは


(1)講義型授業 
(2)ほったらかし型授業 
(3)教師の意図読み取り型授業 
(4)おあずけ、よし型授業 


名前を聞いただけで、なんとなく想像がつく方がもいるかもしれません。
ではこれらはどのような授業なのでしょうか?
1つずつ考察していきたいと思います。


(1)講義型授業

「教師」から「子ども」へ。
常に情報が一方通行に流れていく授業のことです。
教師は懸命に説明する。
それを子どもがしっかりと聞き取る。
その構図が崩れることのない授業が講義型授業と呼ばれるものです。

興味関心があり、「学びたい!」と強く思っている授業であればこの形式でも積極的に学び抜くことができるでしょう。
しかし、学校における授業の大半がこの形式ならどうでしょうか?
45分という授業時間の中でずっと集中して聞いていられる子はごく少数でしょう。


教師がずっとしゃべり続ける。
それをずっと聞かされ続ける。
このような授業を子どもたちは「つまらない」と感じます。


(2)ほったらかし型授業

「はい、交流してね」
この言葉から子どもたちが交流を始める。
(1)の授業とは違い、子どもたちどうしが話し合う場面があります。
一見、自由度が高く子どもたちは楽しみながら学びを進めているように思えます。
しかし、教師は交流をさせたまま、子どもたちの学びをほったらかし。
一旦話し合いを止めて軌道修正をしたり、学びの評価を入れたりすることなく時間が進んでいきます。

ずいぶん前の話です。
廊下を通りかかった時おどろく光景を見かけました。
なんと、子どもたちに課題を投げかけ交流をさせている横で、教師がテストの◯つけをしているのです。
確かに交流をさせることで子どもたちは動き出します。
しかし、それは長続きしません。
なぜなら子どもたちは教師のはらの中を見抜くからです。

先生は自分が楽をするために交流させているだけ。
そのように子どもたちが見抜き始めた時、学びは荒れ始めます。
殺伐した交流の中で学びは深まりません。
初めは楽しいと思っても、途中から学びの質が下がり「つまらない」と思い始める。
そんな危険性をはらんでいるのがこの「ほったらかし型授業」の特徴です。


(3)教師の意図読み取り型授業

講義型でもなく、ほったらかし型でもない。
その間をとろうと教師が考えた末に生まれるのがこの授業です。
ある程度教師が子どもたちをここまで導きたいというゴールを思い浮かべている。
それに導いていこうとあれこれと子どもたちに問いかけ考えさせていきます。

しかし、子どもたちの思考は多様です。
教師が導きたい問いに常に辿りつくわけではありません。

「こうすればいい!」
自信満々で子どもが答えたものの、その答えは教師の意図したものではない。
そんな時が必ずあります。
その時教師は困ったような表情をします。
「そうじゃなくってさ…」
「他にはある?」
というように、なんとか自分のもつ答えに近いものを出させようとしていきます。
その時、子どもたちは発言することを恐れるようになります。
子どもたちは素直で優しいものです。
違う答えを出して教師を傷つけたくない。
そんな考えが生まれて発言を躊躇する子も生まれます。
その結果、活発な子や間違いを恐れない子とそうではない子の間に大きな溝が生まれます。
一部の子の発言で授業が進んでいくのはこの典型的な例なのではないでしょうか?

答えを求め続けて、ようやく教師の求める答えが出た時、初めて教師は
「そのとおりだね!」
と笑顔になるのです。

これではまるでクイズ大会です。
教師のもつ答えにいかに辿りつくか?
それが授業のゴールになってしまい、学習の深まりは生まれません。
一部の教師のことを大好きな子たちは、教師の意図を懸命に読もうと積極的に活動をするかもしれません。
でも、その他大勢は、一歩下がってその様子を見守っている。
そんな構図が生まれてしまう授業。
それが「教師の意図読み取り型授業」の特徴です。


(4)おあずけ、よし型授業

この授業はかなり教師の力量が高まった際に見られる授業です。
授業時間をパーツに分け、その時間の中でやるべきことが提示されます。
「自力解決」「班交流」「全体交流」「まとめ」
というように授業を「パーツ」として見て授業を展開していきます。

これができる教師は、ある程度のゴールイメージをもちつつも、子どもたちの思考をほったらかしにはしないという思いをもっています。
だからこそ、この授業は一概に「悪い授業」とは言い切れません。
なぜなら、授業をある程度のフレームに分けることで子どもたちが学びやすくなったり、思考が深まったりすることもあるからです。

しかし、一方で自分はもっと考えたいのに、鉛筆を置かなければならなかったり、
話したいのに、他の人の発言を聞かなければならなかったりと、自分の意思に反した行動を繰り返し取らされることになります。

2で書いたAさんのように、学力が上位層の子ほど、このジレンマに苦しみます。
もっとやりたいのに、「おあずけ」を強要される。
「よし」と言われるまで動き出すことができないのです。
ひどい時になると、授業時間のほぼすべてをおあずけで終わることもあります。
このような状態で本当に「楽しい」と思い積極的に学びに参加できるでしょうか?

教師は都合のいい時に「主体的であれ」と語ります。
しかし、一方で「おあずけ」をして、主体性を黙殺します。
これはまさに「飼い殺しの主体性」と言っても過言ではありません。

思い切り学びたいのに、それをストップさせられる。
その日々が授業をつまらないものへと変えてしまう。
それがこの「おあずけ、よし型授業」なのです。


4、なぜこれらの授業は子どもの学びを止めるのか?

先ほど述べた4つの授業はなぜ子どもたちの学びを止めてしまうのでしょうか?
それは人が学び続けるための条件を満たしていないからだと考えます。
人が学び続ける時に脳内起きていること。
それは「思考」です。
思考し続けること、それが学び続けることと言えるでしょう。

先ほどの4つの授業でも思考する場面があります。
しかし、それが深まっていかないことが学びの足が止まる原因なのです。

ではどのようにすれば「思考の深まり」が生まれるのでしょうか?
そこには良質なインプット(読み取る、意見を聴く)と前向きなアウトプット(質問する、語る、書き表す)が必要不可欠となります。

これらは思考の両輪で、どちらが欠けても思考の深まりは生まれません。
良質なインプットが前向きなアウトプットを生む。
そして、前向きなアウトプットがインプットしたいという意欲につながる。
その繰り返しのことを「思考の深まり」というのです。

問いが問いを生む。
学べば学ぶほどわからなくなる。
このような状態はまさに「思考が深まっている」状態といえるのです。


では、先ほどの4つの授業はなぜ思考が深まらないのでしょうか?
それぞれ考えていきたいと思います。

(1)講義型授業 

この授業の問題は、授業の中心が「インプット」に偏っていることです。
インプットを絶えず要求し続けられる。
そのような状況で、前向きなアウトプットにつなげられる人はごくまれです。
もし、このような講義型授業で前向きなアウトプットを生みだそうとするなら「予習」が必要不可欠となります。
参加者がすでに知識を網羅しており、ディスカッションを行ったうえでの問いをもちよる。
前向きなインプットへの知的要求があれば、この授業の型であっても「思考の深まり」は生まれるでしょう。

しかし、毎日の授業の中で子どもたちをここまで高めて行くのは非常に難しいものです。
初めは目を輝かせていた子の目が死んで行くのはこのような理由です。

インプットばかりでアウトプットにつながらない。
ここに大きな原因があるのです。
 

(2)ほったらかし授業 

では、ほったらかし授業ではどうでしょうか?
この授業では「教師による問いの提示」や「友達の考えを聞く」といったインプットが存在します。
それと同時に「自分が話す」というアウトプットが授業の中に位置付けられているように感じます。
講義型授業と違って教師が当事者が自ら学ぶことを奨励しているのですからそれは当然でしょう。

だから、このようなほったらかし授業であってもぐっと伸びる子がいるのです。
しかし、それはある意味運任せのようなものです。
放流した稚魚の数パーセントしか、成長して返ってこないように、ほとんどの子の学びは荒れていきます。
それはなぜでしょうか?

それはこの授業では「良質」なインプットが荒れていくからです。
人の思考の深まりには「良質」なインプットが必要不可欠です。
しかし、ほったらかしの雰囲気の中だとその「良質」な考えは息をひそめます。
声の大きい、発言力のある。そのような考え方に人はなびく傾向があるからです。

その良質な考え方を拾い上げる教師の眼、友達の関係性があればこの授業でも十分「思考の深まり」は生まれます。
しかし、大半はそうはいきません。

「良質なインプット」が息をひそめる。
その結果「前向きなアウトプット」が消えていく。
最終的にそれが「自分勝手なアウトプット(おしゃべり)」が形を変えていく。

インプットとアウトプットの質が下がる。
これがほったらかし型授業では学びの深まりが生まれない原因なのです。



(3)教師の意図読み取り型授業 

この授業では教師自身が良質なインプットを施そうと努めます。
導きたい方向があり、そこに導こうという意志があります。
そして、子どもたちにアウトプットを生み出そうと努力する教師の姿も見られるでしょう。

しかし、それが思考の深まりにつながらないのはなぜでしょうか?
それは、良質なインプットの先に前向きなアウトプットがないからです。
そして、アウトプットがインプットしたいという意欲につながらないからです。


「前向きなアウトプット」とはなんでしょうか?
それは子どもたち自身が正解不正解に関わらず「表現したい!」と思えることです。
しかし、この教師の意図読み取り型授業には「前向きなアウトプット」が存在しないのです。
なぜなら、アウトプットする内容が常に教師の手の内にある「正解」だからです。

一問一答、クイズ大会において前向きなアウトプットは生まれません。
だって、答えがわかったらそれで思考は終了だからです。
「教師が出してほしい答え」という正解を目指し、顔色をうかがってアウトプットしても思考の深まりは生まれません。
一見活発な授業に見えても、答えがわかった時点で学びが止まってします。
そんな特徴が見られるのがこの授業に学びの深まりが生まれない理由です。



(4) おあずけ、よし型授業 

この授業において教師は「良質なインプット」と「前向きなアウトプット」を促すために、おあずけ、よしを繰り返します。 

「これってどう解けばいいんだろうね?」(インプット)
「ここから5分は自力解決ね」(アウトプット)
「周りの人と話し合ってごらん」(インプット・アウトプット)
「前を向いて、発表できる人?」(発表者→アウトプット・聞く人→インプット)
「じゃあまとめるよ。きょうわかったことは〜」(アウトプット)

全員に「思考の深まり」を感じさせるために教師が活動を切り、それにのって授業進んでいく。
この流れがうまくいった時、授業は非常におもしろく「思考の深まり」が生まれる。
しかし、流れがうまくいかないと一気に授業が重くなる。

この授業の特徴は「インプット」と「アウトプット」の線引きが明確だということです。
これは大人数にある程度のことを教えるのには非常に有効です。

しかしデメリットもあります。
それは、1人で考えたい(インプットしたい)のに話し合う(アウトプット)することを強制される。
また、聞きにいきたい(アウトプットしたい)のに一人で考える(インプット)をすることを強制される。
そのようないびつな構造が生まれることも多々あるのです。

授業が一気に重くなる時はこのちぐはぐさが教室を支配した時なのです。

いかに子どもたちの思考を読むか?
いかに子どもたちの状況をみとるか?
このような教師の力量が「学びの深まり」に関わってくる。
これが「おあずけ、よし型授業」の特徴です。 

 


5、教師は「つまらない」という壁をいかに乗り越えようとしたか?

教師であれば、誰しも子どもたちの思考を深めたいと思っています。
思考が深まり、学び続けていける授業。
それを体得するために今までの教師はどのようなアプローチをしてきたのでしょうか?
それについて考えていきたいと思います。

多くの授業を見てきた中でで「すばらしい」と評される授業とはどのような授業か?
それは「おあずけ、よし型に見えないおあずけ、よし型授業」です。

教師の言葉で思考が始まり、教師の言葉かけによって思考が深まっていく。
教師の問いかけによって疑問が生まれ、教師のまとめに子どもたちがうなずく。
しかも、流れるように自然に。
子どもたちの思考が教師の語りかけによって引き出され、磨かれていく。
一見おあずけをしているようには見えない芸術的な授業。
そのような授業が「すばらしい」と評されるのです。


子どもの思考にそった授業。
子どものつまずきをみとった授業。
子どもの考えを引き出した授業。
子どもに寄り添った授業…

その授業を讃える表現の仕方は様々でしょう。
それがうまくいかなかった時、それは「教師の意図読み取り型授業」となるのです。

つまり、教師は「つまらない授業」を「楽しい授業」へ追い求める段階として

〈ステップ1〉
  講義型授業 
  ほったらかし型授業  
↓ 
〈ステップ2〉
  教師の意図読み取り型授業  
〈ステップ3〉
  (芸術的な)おあずけ、よし型授業  

という流れで授業を高めていくことが正しいとされていました。

「どのような課題を出せば、子どもの思考にズレが生まれるか?」
「どのような形で話し合いをさせれば子どもたちの学びが深まるか?」
このような議論は
「どうすれば子どもたちの思考をとめずに「おあずけ」ができるか? 」
「どうすれば「よし!」と言ったときに一気に学びが加速するか? 」
ということなのです。


いかにして「おあずけ」「よし」を淀みなく芸術的に行うか?
それに価値が求められてきたと言えるでしょう。
教師がつまらない授業を脱却するため目指した場所はそこだったのです。

すると当然ながら
「おあずけ」といってもいうことが聞けなければ、学習規律がいまいちだった。 
「よし」といっても、学びがよどんだら「おあずけ」が機能していなかった…
というような議論になるのです。

しかし、ここで注目したいことがあります。
それはこれらの行為の主体がすべて「教師」なのです。
「教師」が何をしたか?ばかり論じられていることにお気づきでしょうか?

多くの事後検討会で「教師がいかに教えるか?」という議論が授業研究の大半を占めてしまうのはこのような理由です。  

(教師が)どんな課題を提示すれば? 
(教師が)どんな板書をすれば? 
(教師が)どんな色使いにすれば? 
(教師が)どんなノート指導をすれば? 
(教師が)どんな班分けをすれば?…  


というように。 
すべての主体が「教師」であること。
教師がいかに学びをリードするか?
「つまらない」授業を乗り越えるために多くの教師が目指した場所はそこだったのです。
 


6、「どうすればうまく教えられるか?」という考えの問題点

学び続けられる授業をつくるために教師が追求したもの。
それは「どうすればうまく教えられるか?」というものです。

しかし、ここでちょっとした矛盾が表面化してきます。

本来 「どうすれば」の後には
 「うまく教えられる?」 
ではなく、
「子どもたちは自立した学び手になれるのか?」 
という問いがくるはずではないでしょうか。  

自立した学び手になるために、教師が「いかに教えるか?」という議論をするなら納得できます。
しかし、子どもたちを「自立した学び手にする」という部分が抜け落ちた議論はまったく意味がありません。
中には、子どもたちが主体的に学べるわけがない。
だからこそ、すべて教師が教えるのだ。
というような論理思考に陥っている議論も少なくありません。

これからの時代教師は
「いかに教えるか? 」
から 
「いかに学ぶか? 」
への脱却が求められます。

この視点に辿り着いた教師は大きな価値観の変換を迫られます。 
なぜなら「いかに教えるか?」を追い求めても、その先に必ず「自立した学び手」が育つわけではないからです。

もちろん、「教える」という行為自体がすべて否定されるわけではありません。
私が言いたいのは「教える」という行為の先にある子どもの成長をみすえるべきだということです。

教師が子どもたちを「自立した学び手」に育てたいと本気で願ったならば、教師は「教える」という立場から一歩下がって、子どもたちに活動を任せる必要が出てきます。
しかし、教師はそこには大きな抵抗を感じるのです。
なぜなら、それは今まで自分自身が追い求めてきたベクトルと逆だからです。
  活動をダイナミックに任せてみる。
これはすなわち自分が今まで悪としていた「ほったらかし授業」へと陥ってしまう危険性をはらんでいるからです。

さらに教師は「教える」ことが好きです。
「教えるのが好き」「子どもが好き」
こういう理由で教師を志した人が数多くいるはずです。
「教師が教える」
という行為に価値を感じ、それを目指して教師になった人が「教える」という行為を手放すのは難しいものです。

しかし、教師はあえてそこに踏み込まなければならないと感じます。
「子どもが好き」な教師ではなく、「子どもを成長させることが好き」といえる教師へと自己を変革していかねばならないでしょう。

「子どもが好きな教師」は子どもを赤子にします。
一方「子どもを成長させることが好きな教師」は子どもたちを大人へと成長させるものです。

では、実際にどうすれば「学び続ける授業」を構築することができるのか?
次の部ではそれを具体的に考えてみたいと思います。



(第二部 学び続けられる授業を支えるもの へと続く)

対立する2つのもの。どちらが正しいの?(まとめ)

「そっちではなくて、絶対こっちが大切だ!」

自分の考えを信じて疑わない。
こんな場面にたくさん出会ってきました。

しかし、経験を積むにつれて、この「Aか?Bか?」という二項対立に意味がないのかもしれません。
あんがい、その2つは矛盾しているように見えて、つながっているのかも?
そんなことを考えた今までの記録のまとめ。




(1)「厳しさ」なのか?「優しさ」なのか?

教師に必要なこととは?

「心に目的をもつこと」
「信頼される人であること」
「安心できるあたたかさがあること」
「まっすぐに想いを語れること」
「学び続けられる環境を整えられること」

自分の未熟さから大きな勘違いをしていた。
いらないものを削ぎ落とすことは必要。
しかし、削ぎ落とすことにばかりに目を向けて、子ども達に目を向けないと学びがぐらつき始める。
削いではいけないものを見極められるか?

最終的には「目的」以外削ぎ落とされるのかもしれない。
しかし、初めから「目的」のみで学びが成立するわけがない。

子ども達は教師の言動をじっと見つめている。
「この人は何を伝えようとしているのか?」
「この人は信頼できる人なのか?」
「この人のもとなら楽しく学べそうか?」

初めから「目的」のみを押し付けてはいけない。
どんなに高尚な「目的」をもっていても、子ども達と教師の間に「信頼」「安心」が通い合っていなければ、教師の言葉は子ども達の心には届かない。
子ども達の心に寄り添い、信頼関係を築けるか?

安心できるあたたかさ…。
そこで勘違いしてはいけないこと。
それは「あたたかさ」と「甘さ」は違うこと。
「あたたかさ」は信頼を築き上げるが「甘さは」信頼を突き崩す。

「あたたかさ」を「甘さ」にしない。
そのために必要なものが「目的」だ。
自分が子ども達と共に創りあげる最終地点を常に思い描いていれば「甘さ」にはならない。
「目的」を明確にすれば「あたたかさ」の中にある「厳しさ」が見えてくる。

教えるべきことはきちんと教える。
叱るべきことはきちんと叱る。
認めるべきことはきちんと認め、成長を共に喜ぶ。
「あたたかく」あることと「厳しく」あることは決して矛盾しない。

「これくらいできるだろう」
「なぜこんなこともできないんだ?」
学級結成当初はそんな風に感じるもの。
しかし、その考えは負のスパイラル。
子ども達は一人一人違う。
「きちんと教えるべきことは教える」そんな当たり前のことを見失っていた。


ある方が言っていたこと。
教育に二者択一はない。
「厳しさ」と「優しさ」この二つ、どちらも大切。


私もその通りだと考える。
「厳しさ」「優しさ」どちらも大切。
私が常に考えているのはそれらは相反するものではないということ。


「厳しさ」の中に「優しさ」が存在している。
「優しさ」の中に「厳しさ」が存在している。

「優しさ」と「厳しさ」は相反するものではなく、表裏一体のものなのではないか。


しかし人は迷う。
自分のしていることが本当に「優しさ」なのか?
これは「優しさ」ではなく「甘さ」なのではないか?

自分のしているのは必要な「厳しさ」なのか?
単なる「縛りつけ」なのではないか?と。



迷った瞬間に自分の心は乱れる。
自分の目指すべき道に辿り着くためにまずすべきことは、その心の迷いを受け入れ、その上で自分で決断を下すことなのだろう。
自分で決断をしたことだからこそ魂がこもる。
自分の決定したことが必ず解決の道へと繋がっていると信じること。

迷わない。惑わない。
間違っていたと気づいたなら修正する力が自分にはある。

そのように自分を誰よりも尊重できる自己であること。
そこからすべての道は開けてくる。

「教育とはざるで水を飲むようなもの」
昨日そんな言葉をある方からいただいた。。
確かにその通りだ。
そんなに簡単に成果が表れるわけがない。
だからこそ語り続ける。言葉でも背中でも。

自分自身を本気で信じる力を磨くこと。
常に明るく前向きに「信念」を磨き続ける。


(2)「強制」なのか?「自主性」なのか?

昔、中学校でサッカー部の顧問をしていた時のことです。
私には尊敬するサッカー部の先生がいました。その方は高校のサッカー部の監督で、県の中でも必ず上位にくいこむほどの力のある監督でした。サッカー経験などなかった自分はその方のもとに何度も通ってお話を聞いたものでした。

その方が話していたことで、自分の中でかなり印象に残っている言葉があります。
それは「強制は自主性を生む」という言葉です。

「強制」と「自主性」
私の中ではこれらは矛盾するものでした。だから頭の中に鮮烈に刻まれたのだと思います。
一流の指導者が語った「強制」の役割。幼かった私はなんの意味も知らずにその言葉を振り回しました。まるで「強制」することの免罪符を得たかのように。

この言葉の存在すら何年も忘れていました。しかし、最近ふとした瞬間にこの言葉が頭をよぎりました。そして、思いました。
「あぁ。あの言葉の本当の意味はこういうことだったのか…」と。

我々教師の役割。それは「強制」と「自主性」という一見矛盾しているものを融合させていくことなのです。
子ども達を縛りつけ、すべて自分の思うままに動かすと、子ども達の思考は止まります。もちろん自主性など生まれるわけはありません。
しかし、「すべて君達に任せるよ」といって教えることを手放してしまうことも危険です。
「好き勝手にやる」ことと「自主性」は質が異なるものなのです。

教師にしかできないこと。
それは「勉強しろ」と子ども達に言うことです。
確かにこの言葉は子ども達を縛りつける言葉に聞こえるかもしれません。
しかし、「強制」の先に「自主性」を見ている教師が使うその言葉は非常に大切な意味をもつのです。

「きみはここが弱い。だからやってきなさい。」
「あなたのここは伸びてきた。だからここまでやってごらん。」
先を見て、「やれ」と強制できる力があるのは教師だけなのです。

しかし、そこで気をつけなければならないことがあります。
それは、その「強制」を「自主性」に繋げる覚悟があるか?を常に自分に問うことです。

「初めは先生に強制されてやっていたんだ。でもやっていくうちにそれをやる意味が見えてきたんだよね。先生がなぜそれをやれっていっていたかがわかってきた。」

そんな言葉が子ども達の口からあふれ出てくる。
その時まで子ども達の心にその価値観を刻む覚悟があるか?ということなのです。

「強制は自主性を生む」
「強制」を「強制」では終わらせない。
これを必ず「自主性」にまで繋げていくのだ。
この言葉はそのような覚悟のこもった言葉だったのです。

当時の私は勘違いしていました。「強制」すれば自然に「自主性」が生まれると。
一流の教師とはどのような教師なのでしょうか?
それが最近わかってきた気がします。
一流の教師とは「矛盾するものを融合させていく力のある教師」です。
「強制」と「自主性」。
これらを融合させていく教師でありたい。そんなことを感じました。



(3)「競争」なのか?「協同」なのか?

当たり前の光景になりすぎていた。
しかし、これを創るために4月から語ってきたんだよな。と感じさせられる光景があった。
それはテストを返却した時のことだ。


昨年の4月を思い出す。
テストの出来が悪かった子。
彼らはテストをもらったあとどうしたか。



ある子は恥ずかしそうにうつむき、答案を机の中にしまいこんだ。
また、ある子は点数の部分をしっかり折り、点数が見えないようにしていた。



しかし、今は誰もそんなことをするものはいない。
間違えたものはそのままにすることなく、しっかり直す。
点数なんて何点だろうと気にすることはない。
そして、点数によって相手を馬鹿にすることもない。


「当たり前のようにできているけれど、これってすごいことだよな。」
そう感じた。


私が尊敬する先生と話していてよく出てくる言葉。
それは


「競争と協同は矛盾しない」

ということだ。


点数を出すから競争が生まれる。
過度な競争は好ましくない。
そのような考え方を耳にすることがある。
確かにそれは一理あるかもしれない。

しかし、いくら点数による「競争」を排除した所で、数値で評価されることは生きている限り多々あるだろう。


完璧に排除することが不可能ならば、その数値をもとに学び続けていく子どもをいかに育てるか。それを常に自分に問いたいと考えている。


そのために4月から語ってきた。
それは


「点数なんてどうでもいい話。大事なのはその点数をとったあとにどうするか。」
「わからないことが生まれた瞬間。それが勉強のスタートライン。」
「人は忘れるもの。忘れること、間違えることは当たり前。大切なのはその後。」

ということ。

「競争」を「過度の競争」へと繋げていくか。
「競争」を「協同」へと繋げていくか。
これは教師の「在り方」しだいなのだと思う。

私は「競争」と「協同」を繋げていく教師でありたい。
常にそう思っている。


(4)「引き上げる」のか?「押し上げる」のか?

一年生を担任していた時に気づいたこと。
それは「子どもを成長させる方法には2つのタイプがある」ということ。


1つ目は「引っ張り上げる」タイプ
2つ目は「押しあげる」タイプ



「引っ張り上げる」タイプの教師は「ここまでこい!」とひたすら信じて待つ。
目指すべき場所をしっかりと定め、固く信念を貫く。


「押しあげる」タイプの教師は、子どもたちの目線にまでおりていく。
そして優しく声をかけ、上へ上へと押し上げていく。


「引っ張り上げる」タイプの教師は「剛」。
「押し上げる」タイプの教師は「柔」。

子どもたちの年齢が下がれば下がるほど「押し上げる」スタンスが大切となる。
年齢が上がるほど「引っ張り上げる」スタンスが大切となる。
「どちらが大切」という二項対立ではない。
「どちらも大切」なのだ。


しかし、きをつけねばならない。
固さは時には「押し付け」になる。
柔らかさは時に「甘さ」になる。


ということは・・・。
子どもたちを伸ばすためには教師が「剛」と「柔」のバランスをいかにとるかが大切だ。
普通はそう考えるかもしれない。


しかし、それは違う。
「剛」と「柔」のバランスを取るのではない。
バランスを取るのではなく「融合」するのだ。

教師が信念を固く貫き通し、それに子どもたちが応える。
その成長に対して本気で認め励ますこと。
それが「剛」の中の「柔」。


優しく励まし、押し上げながらも目指すべき場所は見失わない。
決してあきらることなく優しさで包み込んで、
何度も何度も挑戦する。挑戦させる。
これが「柔」の中の「剛」。


自分は今まで「引っ張り上げる」指導を得意としていた。
というか、それこそが子どもたちを成長させていくと信じていた。
しかし、1年生という学年をもたせていただいたことで、
それだけでは足りないことに気づいた。
引っ張り上げる視点。
押し上げる視点。
それをいかに融合させ、往復していくか?
今年はその大切さをひしひしと感じさせられる一年だ。


(5)「情熱」なのか?「冷静」なのか?

一年生の子どもたちは純粋だ。
彼らは自分と他人とを隔てる境界線がとても薄いのだ。
人の成功を自分のことのように喜び、人の悲しみを自分のことのように受け止める。
すべては一つ。
この感覚は自分には思い出せない・・・。
私自身がとっくに忘れ去ってしまった世界の中に生きている。


子どもたちは決して「教えられる」だけの存在ではない。
大人が忘れ去ってしまった大切なものを彼らはもっている。
大人だからこそ子どもたちに学ぶべきことはたくさんあるはずだ。
今を生きる子どもたち。
呼吸をするかのように自然に現在を生きている。
それだけで尊敬に値する。


過去にとらわれることなく、未来に恐れることなく。
ひたすら今を生きる子どもたち。
他に臆することなく、自分を恥じることなくすべてを出し切る子どもたち。


彼らは生まれながらに悟りの境地にある
悟りの境地にある彼らに自分は何を伝えられるのだろう?


子どもたちを成長させるとはどういうことなんだろう?
大人にしようと急ぐあまり、大切なことを見失ってはいないか?


私が何かを伝えることで彼らがまだ抱いている大切なものを削りとっているのではないか?
そんな畏れを抱きながら毎日が過ぎて行く。


子どもたちは毎日何かを吸収し、少しずつ伸びていく。
どんなに力んでも急激に伸ばすことはできない。
ふとそんな当たり前のことに気付く。


「自分が子どもたちを絶対に伸ばすんだ!」という情熱。
「急激には変えられない。なすべきことを淡々と行おう。」という冷静さ。
この往復の中で教師は戸惑う。
そして、この往復の中で教師は成長する。


無意味な往復のように思えるかもしれない。
しかし、その往復の中で螺旋階段を登るように力が高まっていく。
そう信じて瞬間に向き合い続けるしかない。


(6)主体性が「ある」のか?「ない」のか?
「どうやったら子どもたちに主体性を育てられるのか?」
何年もずっと考えて続けてきた問い。
最近この問いへの答えが見えてきた。

結論から言う。それは
純粋な「主体性」なんて存在しないということ。
存在するとすればそれは「条件付きの主体性」だ。
これがストンと心に落ちてから握ることも、放すことも恐れなくなった。

「常に主体的に行動できる子どもたちを育てたい」
数年前まで本気でそう願っていた。
しかし「主体性」という言葉の意味を考えれば考えるほど深みにはまっていく。
人が常に「主体的」となれることなんてないのではないか。
自分自身を客観的に見ていて強くそう感じる。

「主体性」
それが発揮できるか否かは心の状況と周囲の環境に大きく左右される。
それが「条件付きの主体性」と述べた理由である。
しかし「条件付き」ということはその時点ですでに「主体性」とは呼べない。

自分に照らし合わせて考えてみればわかるだろう。
自分自身、伸び伸びと主体性を発揮して行動できる時とそうでない時、周囲の状況が大きく異なることを。

結局「主体性」なんて言葉はまやかし。
「学び合い」が主体性を大切にしているように見えながら、実は「究極の一斉授業」であるのと同じ。

握りしめた手を放して、放し続けて、任せ、任せ続けたその先に「主体性」が身に付くと信じていた。
しかし、その先に主体性なんて存在しないことに気付く。
どんなに主体性が身に付いたように見えても、それは結局教師の手のひらの上にのせられたものだ。

それが分かれば自分がやるべきことが見えてくる。
自分が教師としてできるのは「主体性を育てる」ことではなくて、「主体性(のようなもの)が発揮できる場を経験させる」こと。

「うちのクラスの子は主体的に行動することができない」
そんな会話をしばしば耳にする。 これは子どもたちにのみ原因があるわけではないのだ。
この言葉を放つ教師は自分を含めた集団がその状況をつくりだしていることから目をそらしている。

「うちのクラスの子どもたちは主体性がない。」
そうなのか?
主体性が「ある」「ない」ではなく、 主体性が「発揮できる」「発揮できない」なのではないか?

「うちのクラスの子は主体的に行動できない」
そう嘆く人教師は主体性というものが子どもたちの心に大きく影響されると考えている。
しかし、実はその教師やクラスの生み出す状況が子どもたちの主体性を縛り付けている。

子どもたちの主体性を縛り付けるもの。
それは「恐れ」だ。
失敗したらどうしよう。
検討外れのことをしていたらどうしよう。
周りの人にどう思われるだろう。
このような恐れが子どもたちの心を縛り付ける。

常に心に存在し続ける主体性なんてないということ。
主体性というのは子どもたちの心の状態だけではなく、その子をとりまく周りの状況に大きく影響されるものだから。
どんなに主体性を育てても、それが発揮できるか否かは周囲の状況によるのだ。

教師の役割は主体性を育てることではない。
主体性(のようなもの)が発揮できる環境を整えることだ。

これに気付いてからブレが少なくなった。
数年前は「主体性を養うためには子どもたちに任せなければ…」
そう考えて教師という存在を消そうと努めていた。
しかし、今は躊躇することなく斬り込める。躊躇することなく語れる。躊躇することなく握ることができる。

一斉か協同か。
握るか放すか。
そんな二項対立に意味がないことに気付く。
自分にできることは子どもたちのそばにいる間、いかに刻み続けるか、いかに示し続けるかだ。
最終的に自分が担任ではなくなれば、自分の存在は子どもたちの目の前から消える。


「主体性(のようなもの)」が発揮できる状況とは?
・自分の心に向かうべきゴール地点が思い描けているか?
・自分を受け止めてくれる仲間がいるか?
(失敗に価値を感じられる集団)
(「教えて」「助けて」と言い合える集団)
・どんな出来事にも価値を見出す肯定的な眼があるか?

だから目的を見据える価値を語る。
だから集団をチームへと成長させることの価値を語る。
だから、この世に「善悪」「敵味方」「勝ち負け」「幸不幸」が存在しないことを語る。
この3つがそろえば、主体性(のようなもの)が自ずと発揮されるから。

「あぁ。自分は主体性がないな…」
そんな風に思う悩む必要なんてない。
主体性なんて発揮できる場が整えば自ずと湧き上がってくる。
大切なのはそんな自分を嘆くことではない。
主体性を発揮できる場を自分自身でいかに整えていくかという感覚を知ることだろう。

自分自身の中に目指すべきゴール地点がある。
しかし、焦ることなく周囲の景色を楽しみながらそれに一歩一歩近づいていける。
そんな状況を生み出すことができれば「主体性」などと力を入れずとも歩み続けられるのだろう。


(7)「インプット」なのか?「アウトプット」なのか?

「話をしっかり聞きなさい」
教師はインプットの価値を語る。

しかし一方で
「主体的に行動しなさい」
とアウトプットの価値を語る。

「インプットとアウトプット。 どちらが子どもを伸ばすのだろう?」
そんなことをずっと考えてきた。

インプットとは誰かの話を聞くこと。何かを読むこと。
アウトプットは話すこと。書くこと。行動すること。

授業において「全員発表」を目標にする教師がいる。
なぜそれを目標にするのだろう?
突き詰めていくと そこには教師がアウトプットを大切に思う気持ちが表れている。

「みんなの前で意見を言うことが大切」
「自分の意見を誰かに伝える経験が子どもたちを伸ばす」
アウトプットへの価値が根底にある。
しかし、そこに大きな矛盾を感じる。
どんなに全員が発表をしたとしても、一人が発表している間はその他大勢はインプット(受け身)となる。
アウトプットの価値を感じているはずなのに、実際の授業は大半の時間をインプットに費やしている。
多くの授業を見ていてこんな違和感を感じる。

一斉授業はどうしてもインプットに傾きがちになる。
このような状況を打破するために脚光を浴びているのが「協同学習」というスタイルなのだろう。
「協同学習」は子どもたちのアウトプットの量を大幅に増加させる。
それによって「主体性」「自分ごと」という感覚を養おうというわけだ。

インプットは受け身であるが、アウトプットは常に自分が主役となる。
そう考えていくと常に受け身ではなく、学びの主役となれるアウトプットをさせた方が伸びるのではないか?
子どもたちを学びの主人公とさせる。
そのためにアウトプットを中心に授業を展開していくべきだ。

数年前はこのように考えていた。
しかし、少しずつその考え方が変わってきていることに気づく。

ここ数年「協同学習」を行ってきて気づいたこと。
それは「インプットか?」「アウトプットか?」という議論にまったく意味がないということだ。

協同学習を知った当初、「アウトプット」の量が飛躍的に増加するのを感じて興奮した。
これで子どもたちに「主体性」を養うことができる。子どもたちをグッと成長させることができると。

しかし、それは幻想だったことに気づく。
アウトプットを増やしてもグダグダのおしゃべりはまったく意味がない。
インプットかアウトプットかの二項対立に全く意味がないことに気づく。

ずっと考えてきて得たこと。
それは子どもたちを伸ばすためには
「良質なインプット」と「良質なアウトプット」が大切だということだ。
では「良質なインプット・アウトプット」とは何か?

誰かの講演会を聞く。
すばらしい話。目からウロコが落ちる。
その後に感じること。
それは 「やっぱりインプットって大切だなぁ。」ということ。

しかしこんな時もある。
講演会を聞いてもまったく頭に入ってこない。
そのうちに思考が宙を舞い「聞いているふり」になる。
講演会の後に感じること。
「やっぱりインプットは眠くなる。アウトプットが大切だなぁ。」

どちらの例も「インプット」していることには変わりない。
しかし、その結果得たものは正反対。
前者は充実感を得、後者は徒労感を得る。

どちらも同じインプットなのに結果が異なるのだ。
同じインプットでも「質」が異なるのだ。

前者のインプットは「質の良いインプット」
後者のインプットは「質の悪いインプット」と言えるだろう。

この両者の違いを見ていくと「良質」というものの意味が見えてくる。
「良質とは何か?」私はこう考える。

「アウトプットを促すのが良質のインプット」
「インプットを促すのが良質のアウトプット」

「インプットかアウトプットか?」ではない。
この2つは対極のようでしっかりつながっているのだ。

どんなに雄弁に語ろう(インプットさせよう)と、子どもたちがその言葉をもとに「よしやってみよう!」(アウトプットしてみよう!)と思えなければ良質なインプットとは呼べない。

どんなに主体的に行動しよう(アウトプットしよう)と、行動した結果をさらに高めるために、自分で調べたり誰かの話を聴いたりしよう(インプットしよう)と思えなければ、それは良質なアウトプットとは呼べないのだ。

「大切なのはインプットとアウトプットとの往復である」

これに気づけば、授業を見る目が変わる。
「聴ける子を育てたい」 その言葉を大義名分にし、アウトプットにつながらないインプットをひたすら続けてはいないか?

「大切なのは自分で行動する力だ」 この言葉を大義名分にし、インプットにつながらないアウトプットをしていないか?

子どもを伸ばしていくために必要なこととは?

「よし。聴いたことををもとに自分でやってみよう!」
このようにアウトプットが促す良質のインプット。

「ねえ。もっとうまくやるにはどうすればいいかな?教えて。」
このようにインプットを促す良質のアウトプット。

力のある教師の授業には「インプット」と「アウトプット」の往復がある。
今一度考えるべきことは「一斉」か「協同」かということではない。

いかに「インプット」と「アウトプット」を往復する授業を展開していくか?ということだろう。

そんなことを考えるようになってから、「教える」ことを恐れなくなった。
「これはなぜこうなるの?」
「ここは違うんじゃない?」
「ちょっと話を聞きなさい。」

大切なのは「一斉」とか「協同」ではない。
「インプット」と「アウトプット」の往復だ。

何度も何度も往復する。
その数だけ人は成長していく。
その場をつくりだせるのは教師だけなのだろう。


(8)「握る」のか?「放す」のか?
「自主性」と「主体性」はどう違うのか?
同じように捉えられるこの言葉だが、この違いがしっかりと理解できることで様々なことがつながってくる。


「自主性」とはやるべきことを人に言われずにやること。
やるべきことはあらかじめ与えられている。
しかし、それを誰かに言われる前に行えるかどうか?ということ。

「主体性」とは具体的にやるべきことが与えられていなくても、「目的」をもとに自分の行動を決定できること。
「自主性」はやるべきことをするか?しないか?によって図られる。
それに対して「主体性」はやるべきか?やるべきではないか?という判断も必要となってくる。

そのように考えていくと、「主体性」とは「自主性」の上位概念だということが見えてくる。
「自主性」を求める教師は「やるべきこと」をきちんと指し示す。
その上でそれを自分から行うことを求める。

これが教育における「握る」という行為。
この行為なしに教育は成り立たない。
しかし「主体性」はこの握りしめた手を放す行為。
「これをやれ!」ではなく「どうすればいいかな?」と問う。

「握る」行為は悪。
「放す」行為が善。
一見そのように考えられがちだが、そうではない。
「握る」から「放す」ことができる。

「自主性」が育っていない子どもたちにいかに「主体性」を語ろうとその言葉は響きにくい。
行うべきことを自分から行うことの価値を感じていない子どもたちに、「どうすればいい?」と問いかけても意味はない。
思考停止に陥り「やらない」という選択肢に陥っていく。

「協同学習」を行うことでクラスが崩れていく。
この大きな原因はここにあるのではないか?
「自主性」と「主体性」の違いが見えてきたことでそのように感じるようになった。

「協同学習」によってクラスが崩れる原因は「自主性」が育っていない状況で「主体性」を求めることにあるのではないか?

数年前ある人に問われた言葉。
「今日はこれをやります。はいどうぞ。」で授業が成立するならば教師がいる意味はあるのか?
近所のおじさん、おばさんが「はいどうぞ。」というのと何が違うのか?

思考を揺さぶる問いだった。

教師が教室にいることの意味とは何か?
その価値を考えることなくすべてを委ねてしまう。そこにほころびが生じる。

教師にしかできないこと。
それは「学びなさい」と言うこと。

学ぶことの目的を伝え、学ぶことの価値を語り、何度も何度も挑戦する場を与えること。
それが教師の役割だ。

このように考えていくと教師はそばにいる以上「主体性」は育てられないということが見えてくる。 
「あなたたちにとってこれが大切なんだよ」 
そう語ってそれに前向きに取り組ませていく、そこには「やらない」という選択はないのだから。

「自主→主体」
大なり小なりこの流れが大切なのだろう。
この流れを意識せずにいきなり主体性を求めるからノイズが大きくなる。

握る(自主性)べきか、放す(主体性)べきか?
この二項対立に意味がないのだ。
自主性が育っていけば、しだいにそれが主体性(のようなもの)へと高まっていく。
「放す」ために「握る」。
「握る」ことによって「放せる」のだ。

教師に「主体性」は育てられない。 教師の存在自体が矛盾した存在なのだ。 育てられるわけがないのにそれを強く望む。 このねじれが見えてきたことで少しずつ楽になってきた。 結局、自分にできることをただただやり続ける。やっぱりそれしかない。


(9)「遊び」なのか?「学び」なのか?

「遊び」を通して「学ぶ」
昨日の研修でこんな言葉を聞いた。

しかし、そうなのか?
子どもにとっては「遊び」も「学び」であり「学び」も「遊び」。
自分の子どもを見ていてもそんなことを感じる。
子どもたちにとって本来「学び」と「遊び」の線引きなどないのだ。

その線引きをするのは大人。
「遊び」=楽しい
「学び」=つまらない
と考えている大人なのだ。

本来「遊び」と「学び」の区別などない。
しかし、年齢を重ねていくうちに両者に隔たりが生まれてくる。
その時に教師がとりがちな選択。
それは「学び」の入り口を「遊び」にすることで、「学び」の敷居を下げていくこと。
それは「子どもだまし」というのではないか?
「学び」はつまらない。だから「遊び」ながら学んでいこう。
学びのハードルを下げて、「やりたい」「おもしろそう」と思わせる。
年齢を重ねた子どもたちにその方法をとることに違和感を覚える。

「遊び」を通して学ばせる。
これは幼稚園の先生方が追い求める課題だろう。
小学校教師ならば求める者はむしろ逆。
「学び」を通して遊ばせる。ということ。

「なっ?学ぶことってすごい楽しいだろ?」
「やればやるほど楽しくなるよね。学びで遊ぶことってできるんだよ」

「学び」を通して遊ぼう。
でも両者には本来線引きなんてないんだよ。

それを伝えることこそ、小学校教師の役割ではないか?

「学ぶってしんどいよな。だから、楽しく遊びながらやるか。」
これは学びのハードルを下げている。
「遊び」=楽しい
「学び」=つまらない
この構図をぶちこわす。
そんな教師でありたい。



(10)「非難」なのか?「批判」なのか?

「批判的思考」
このように聞くと相手を批判することに重きを置く人がいる。しかしそれは批判的思考の入り口。だれもが通り抜ける始めの段階なのだ。しかし、その入り口に留まることなく、さらに深めていくためにはどうすればいいのか?それを考えている。
「批判的思考」を「批判」で終わらず、「多角的に物事を吟味する思考」へ深めていくためには?
相手の粗ではなく、その思考に至る思考へも目を向けることが大切になってくる。
「すべての物事は善意から始まる」
この言葉は私がすでに肝に銘じている言葉だ。
幼い時は自分に合わないこと、理解できないことはすべて悪だと決めつけていた。
しかし、ぶつかり、相手の意見に耳を傾けていくうちに、相手には相手なりの正義が存在していることに気づく。
どのような取り組みにも、それに至るスタートラインは「善意」
どんな取り組みにも「さらに伸びたい伸ばしたい」という純粋な思いがかくれている。
理念レベルで物事を捉えれば、今まで私が出会った人たちはすべて「善」だった。
しかし、それを「行動」レベルで見ていくと、それは揺らぎ始める。方法があいまいだったり、ゴールが低かったり、ゴールとは反対に向かっていく方法だったり…。そこに自分と相手の「違い」が浮き彫りになっていく。
「すべての物事は善意から始まる」
そのように考えていくと、どの人の行動も「善」。
誰もが自分の中の「正義」のもとに行動しているのだ。
「正しい」「正しくない」
ではなく
「理解できる」「理解できない」
が「善」と「悪」に変化するのだ。
「批判」から「吟味」に深めていくために必要なこと。それは「相手のスタート地点が善意である」と認めること。それを認めたうえで、行動レベルのブレを指摘することだろう。始めから行動レベルに目を向けていくと、どうしても自分と違う部分のみに目が向き、相手を「非難」することに終始してしまう。
「二項対立を超える」
この言葉を自分の中ではっきりと言葉にできるようになったのは、ここ最近だ。
「すべては善意から始まる」
それがわかれば相手の戦う必要はなくなるのだ。
「批判」と「非難」は違う。
その行動のスタートに目を向け、相手を認めるところから「批判」は始まる。
その視点ができる人ほど、建設的に物事を捉えることができるのだ。


(11)「制圧」なのか?「納得」なのか?
IさんとOさんの講座に参加させてもらった。
講座の中でOさんの学級のビデオの様子を拝見する。
子どもたちが学び合う場面。
すてきだった。
勉強ができるってことは当たり前じゃない。
1時間1時間が大切な学びの時間なんだと子どもたちが感じているんだなぁというのが伝わってきた。

Oさんがしきりに言っていた言葉。
「制圧」ではなくて「納得」です。
でも、最後にちょっとつぶやいた。
「でも、やっぱり制圧かな?」

葛藤するこの言葉の中に含まれる、真理を見た気がした。
Iさんが「個人思考と集団思考を分ける必要がない」
とおっしゃったように「制圧」と「納得」も境界線などないのではないか?
そんな風に感じる。

「制圧」(という言葉が妥当ではないと思うけど)したから「納得」する子だっている。
「納得」したから結果「制圧」された子もいる。
そんな境界線なんてない。

大切なのは、大野さんが常に「制圧」ではなく「納得」というゴールを見つめ続けていることなんだと感じる。
やっぱりすべては「教師の在り方」
どんなにテクニックを学んでも実践をまねても、そこがなければ成り立たない。
そんなことを感じる。


(12)「得意」なのか?「苦手」なのか?

先週の宿題で子どもたちに「好きな教科ランキング」を聞いてみました。
1学期にも同じことを聞いたことがあるのですが、久しぶりに再調査!
すると1学期に比べて子どもたちのランキングに大きな変動が・・・。
1学期は「図工・体育・音楽」などの技能教科で占められていたランキング。
しかし今回のランキングにはたくさんの子が「国語・算数・理科」などの教科をランクイン。
(社会は2学期の学びが終わっていて最近やっていなかったからからランク外だったのかな?)
休み時間に子どもたちに話を聞いてみるとみんな口々にこんなことを。

「最近算数がすご~く楽しい!!自分でどんどん進められるようになってきたよ!」
「理科の実験が楽しい!実験のまとめとかもうまく書けるようになってきたし!」
「国語で文章をまとめるのが得意になった!今では裏までびっしり書けるよ!」などなど。

学習って楽しい!学ぶっておもしろい!こんなことを感じる子が増えてきているんだなぁ・・・。(しみじみ・・・)
そんなことを感じてうれしくなりました。
また、先日はこんなことも。「次は算数は新しい単元に入るよ~!」と私が言ったところ、
ある子が「やった~!!」と言ったのです。
声のした方に目を向けると、そこには4月には算数が苦手でなかなか思うように学ぶことができていなかった子の姿が!数字を見るだけで目を背けていたあの時の印象はまったくありません。
「はやくやりたい。もっと学びたい。」そんな気もちにあふれている顔でした。こういう瞬間が一番嬉しい。
きっと自分の学びにたいして自信が生まれてきたのでしょう。

まだ算数が苦手な子はいます。でもその子のランキングをのぞいてみると1位に「算数」文字が!
これを見てすごくすごくすごくうれしくなりました。それはなぜか?
「苦手=嫌い」という構図が崩れ始めているのを感じたからです。

教師になってから今まで、ずっと子どもたちを見てきてわかったことがあります。
それは「子どもたちが伸びるきっかけ」です。
伸び始める子の共通点。それは、
「苦手だけど好きなんだ」という言葉が聞こえてくることです。

私たちはついつい「苦手=嫌い」と考えがちです。
こうなると気もちはどんどん下がっていきます。

しかし、伸び始める子は違います。胸をはって堂々と
「ぼくね。まだまだ苦手なところはあるけれど、好きなんだ。勉強するのが楽しいんだ。」と言うのです。

 「苦手だから嫌い」→「苦手だけどきらいじゃない」「苦手だけど好き」→「得意だから好き」 

伸びていく子どもたちはこういう風に一歩一歩階段を登っていくものです。
クラスの子の中に、こんな風に階段を登り始めている子がいる。それを感じてうれしくなりました。
しかし、この世の中には不思議なことに
「得意だけど嫌い」という人も存在するんですよね。

先日テレビで、慶応大学の3年生の子が話しているのをみました。
その子は「親に言われて勉強をした。そして大学に合格した。でも勉強は好きじゃない。そしてそろそろ就職活動が始まるけれど、何をやりたいのかがまったくわからない。絶望的だ。」というのです。
これはまさに「得意だけれど嫌い」というパターンだなと感じました。
きっとこの子のゴールは
「親のいうことをきくこと」
「いい大学に入ること」
だったのでしょう。これではせっかくの学びがもったいないですよね。
こういうことを考えてくと「得意」か「苦手」かは子どもの成長にとって関係がないことがわかります。
「得意だけど後ろ向きな人」もいれば「苦手だけど前向きな人」もいる。
そしてこの世でどんどん伸びていくのは後者なのだと思います。

「得意」「苦手」なんかは関係ない。大切なのはその先の想いだよ。
こんな風にこれからも伝え続けていきたいな。
子どもたちのランキングを見てふとそんなことを感じました。



(13)「限界」なのか?「可能性」なのか?

「子どもを伸ばす教師」であるために必要な条件とは? 
そう問われればどう答えるだろうか? 
最近考えていることは2つある。 

1つ目は 
教師である自分の可能性を信じること 

2つ目は 
教師である自分の限界を感じること



この2つは矛盾しているように感じるかもしれない。 
しかし、どう考えてもこの2つが必要なのだ。 
そしてこの2つはしっかりとつながっている。

①教師である自分の可能性を信じる 

教師にしかできないことがある。 
教師であるからこそできることが学校にはたくさんある。 
大きいものから小さいものまで。 
そのどれを選び取り、どれを磨いていくか? 
それによって子どもの成長の質は変わってくる。

子どもたちを伸ばすのは教師の信念だ。 
「これが大切なんだ」 
そう強く思う意志が子どもたちを変える。 
「自分には子どもたちを変えていく力がある」 
そう強く思い続けられるか?

人の思いは伝染していく。 
それを洗脳と呼ぶ人もいるかもしれない。 
どんな言葉であろうとそれは事実だろう。 
教師が自分自身のもつ力の可能性を信じること。 
これは子どもたちを成長させていくには必要不可欠だろう


②教師である自分の限界を感じること 

教師である自分のもつ可能性を強く信じながら、その限界の存在をしっかりと感じ取っていくこと。 
これも大切なことだろう。 

「 教師にしかできないこと」 
があるということは 「
友達にしかできないこと」 
があるということの裏返しなのだ。

これは「協働学習」を行っている方には伝わりやすいかもしれない。 
教師というものが握れるのは「幹」の部分だけ。 
「枝葉」の部分をすべて握ることは決してできない。 
横のつながりを築こうとする教師は誰しも教師としての自分の限界を感じ取っている。


①教師である自分の可能性を信じること
②教師である自分の限界を感じること 両者は決して矛盾したものではない。 
教師に求められるのは、 この「可能性」と「限界」のはざまで自分を広げていくことなのだ。

「求める」か「見つめる」か? 
この葛藤の中で教師は自分を広げていく。 
「求める」ということは教師である自分の可能性を信じること。 
「見つめる」ということは限界を感じ取り、他とつなげようとすること。


「可能性」と「限界」 矛盾なく融合させていく。 
これができる自分でありたい。 「可能性」を追い求め。 
「限界」を感じ立ち止まる。 「限界」を感じながらも突き進み。 
「可能性」を感じながらじっと見つめる。 

両者を飲み込みながら子どもたちを看る。 そんな自分でありたいものだ。



(14)「同じ」なのか?「違う」のか?

意見が対立する。 
耳を傾けようとする。 
しかし、反論が頭の中をうずまき、相手の言葉が入ってこない。 
傾聴とはほど遠い状態だ。 
耳は確かに相手に傾いている。 
しかし、鼓膜には薄い膜が張り付いたように鈍い音が響く。


「どうやってわからせよう」 
「この人とはちがうな」
「この対話は無駄だな」

そんな言葉が頭の奥で響く。 
その瞬間も相手はなおも懸命に自分の正当性を訴え続ける。 
それは無機質に耳をかすめる。 
相手の言葉一つ一つに 
「そうかな?」
「それは違うな」
ともう1人の自分が反応する。

相手の言葉が途切れた瞬間。
口が勝手に動きだす。 
「でもさ…」
この言葉がすべてを物語る。 
傾聴とはほど遠い状態。 
否定から始まる会話。 
その時点で話し合いの終着点は見えている。 
見えていても止まらない。
語気は荒くなる。 
言葉は矢のように速くなる。

「この人ならわかってもらえるかもしれない」 
そんな期待が反転する。 
期待は反転した瞬間に、攻撃性を増す。 
私の心の中で何かが反転したことに相手も気づく。 
相手の口元がすっと下がる。
目が泳ぐ。 
もはや対話とは言えない。

こうして「対話」と称したものは終わる。
心にモヤモヤとした違和感を残して。 
しかし、目の前に相手が消えても「心の声」は止むことはない。 
「さっきのあれってさ。やっぱりおかしいよな」
「あれはどういうことだろう」 
「あの人はあんな風にいうけどさ…」

そして、私は一つの結論を導き出す。 
「あの人とは意見が合わないんだよな」 
「あんな人放っておけばいいんだよ」 と。 

心の中のもう1人の自分は 
「そうだよね。じゃあこの話はおしまい!」
と頷く…という展開にはならない。

「さっきの話だけどさ。やっぱおかしいよな。」
この話は打ち切りにしようという自分の決断はまったく無視。
またしてももう1人の自分との対話の渦に巻き込まれる。 
モヤモヤがまたモヤモヤを生み。 
その都度、激しい応酬が繰り返される。

ヘトヘトになるまで繰り返される自己対話。 
憎しみさえ覚えそうなその対話の果てに不思議な感覚が芽生える。 

「自分はそうは考えないけど、そういう考え方もあるのかもしれないな」 と。 
「理解していないけど理解した」 
「理解したけど理解していない」 
そんな不思議な感覚。

「許せない」という感覚が緩む。
同じ場所に立っているが、違うものを見ている。 
それも「あり」なのかな? 
自分が外側に広がる感覚を覚える。
しかし、その分自分が薄まるような感覚も。

今まで許すことができなかったものを許せるようになること。 
それを「成長」という。 
どこかで聞いた言葉がつながる。 

「ああ。これが成長なのかな?」 
そう考えるとほっとする。
しかし、その反面、自分がなくなっていくようなさびしさも。

「同じ場所で同じものを見ていたい」
そうでないと許せなかった過去の自分がいる。 

「同じものを見ているのに違う場所にいる」 
「違うものを見ているのに同じ場所にいなければならない」 
このちぐはぐな状況が苦しみを生み出す。

世の中の苦しみはすべてその思い込みから生まれる。 
わかってもらえるか、どうかは二の次にして、淡々同じ場に立ち続ける。
その時に人は案外自分というものを理解してくれるものなのかもしれない。



(15)「信じている」のか?「信じていない」のか?

ちょいと感じたこと。
「子どもの力を信じて〜」
この言葉はよく耳にする。自分だってよく使うなぁ。
でも、この言葉ってけっこう難しいんのよね。


「信じる」って何だろう? 


子どもたちには力がある。 
教師である限りそう思っていたいよね。

でも、いつでもそうなのかな?
いつも信じることは可能なのかな?


例えば
相手が赤ちゃんだったとする。
その赤ちゃんに包丁をもたせて 

「赤ちゃんが包丁で料理できる!」 
って信じることはできる?


「いやいや…そりゃあ赤ちゃんじゃどう考えても無理だよね。」
って言うよね。 


うんうん。
じゃあ、赤ちゃんじゃだめなら、何歳になれば信じられるのだろう?
その境界線は??
ならば、いつでも「信じる」なんてことはできないんじゃない?


そう考えていくと、「子どもの力を信じる」という言葉の意味が変わってくるよね。
絶対的な「信じる」から
条件的な「信じる」になっていくよね。


自分もそうだったけど
「信じる」という言葉を使う人って、
子どもたちに任せない人を
「信じられていない」って非難しがちなんじゃないかな?



「信じる」という言葉ってすごくきれいな響きだよね。 
「挑戦させて伸ばしたい!」っていう愛だよね。 
逆に「信じない」っていうと、すごく悪いことに感じる。 

でもさ
それも「命を危険にさらしたくない!」という愛なんじゃないかな? 
赤ちゃんに包丁をもたせない。
これだって愛だよね。

「信じる」=善 
「信じない」=悪 

なんて簡単に言えないと思うんだな。

「信じる」 
という言葉を自分が何もしなくてもいいという免罪符にしちゃいけないと思うんだな。 


「きっとできるはずだ!」 
と信じることと 
「できる力を身につけていけるはずだ!」 
と信じることは全く別次元の話。


この「信じる」という言葉のマジックにはまると、
子どもたちの学びに介入することが「悪」と感じてしまうんだな。
でも、実際そうじゃない。

「信じて・任せてみる」のは大切
でも
「信じ切って委ねちゃう」のは危険。


「信じる」「信じない」という二項対立を超えて、それらを融合させる。
一歩先に進んでいけるようにしたいよなぁ。
基本、みんな「愛」なんだからさ。


(16)「近い」のか?「遠い」のか?

「0と1は限りなく近く 途方もなく遠い」

ある本を読んでいてこんな言葉に出会ったんだな。
ああ。この言葉めちゃくちゃ面白い。


人の成長において「0」を「1」にすることって
「1」を「2」とか「3」に高めていくことより難しい。

これは4年前、1年生を担任した時に思ったこと。
中学校教師から、小学校にうつり、高学年ばかり担任していた自分にはたちうちできなかった…。

大人である自分が頭で知識をこねくり回して
「成長させてやるぜ!」
なんて考えているとその道は「途方もなく遠い」ものになる。

でも、そういう思考を全部とっぱらって目の前の子どもたちの学びを見つめて一緒に楽しみ始めると、成長は一気に訪れるんだよな。

「あれ?なんかできるようになっている!?」
なんて感動の連続だったあの時。

限りなく近い場所にあったのに、自分の力の入れ方でそれは途方もなく遠くにいっちゃうのさ。
それにしてもこの言葉は面白い。


前にも
「永遠を突き抜ける」
っていう言葉にも引っかかった。
突き抜けることができないものなのに、それを突き抜ける。
それぐらい大きな力ってことかな。
矛盾までも力に変えるこの言葉ってすげえなと。

今回も同じ。
限りなく近く 途方もなく遠い。
近いのに遠い。
遠いのに近い。
矛盾しているけどこういうことってよくあるよね。
こういう言葉を1つ1つ拾って、何かが伝えられる材料にしていきたいもんだ。


おわりに

こういう二項対立って世の中にあふれている。
でも、こういうものっ実はつながっているものなのかも?
一方の価値を語りながらも
もう一方の可能性も感じられる。
そんな人でありたいと思うな。 

自分はどのタイプ?

(1)チームに必要な9つのタイプ

【引用】
ベルビン(Meredith Belbin)のチームロールモデル  
チームワーク理論の権威、第1人者のメルビンは
「成功するチームの勝因として、理想的なチームには9つの役割を担うメンバーが必要」
と説いている。

▼チームにおける9つの価値ある役割

1.PL:プラント(Plant)
発明家、アイディアマン、
創造力とオリジナリティで、困難な問題を解決できる人


2.RI:情報収集者(Resource Investigator)
コミュニケーションがうまく、外交的で情熱があり、
好機を探る(探れる)人


3.CD:コーディネーター(Coordinator)
良き議事進行者(議長)で、
自信に満ち、目標を明確に示し意思決定を促すことができる人


4.SH:形づくる人(Shaper)
緊張状態でも挑戦的で、ダイナミックに障害に立ち向かい解決できる人


5.TW:チームワーカー(Team Worker)
知覚に鋭く聞き上手で、協調性があり、摩擦を避けるタイプの人


6.IM:着実な実行者(Implementer)
信頼性があり、有能で頼りがいがあり、アイデアを着実に実行に移せる人


7.CF:完璧完遂者(Complete Finisher)
間違いや手落ちも見つけながら、誠実熱心に、仕事を時間通りに行う人


8.SP:スペシャリスト(Specialist)
特定分野の知識、スキル、ノウハウをもつエキスパート、専門家


9.ME:モニター(Monitor Evaluator)
冷静な観察者、優れた戦略的判断力持つ人
【引用終わり】

多様な人が繋がるということ。
それはチームには欠かせないこと。
誰かと自分を比べて、自己肯定感が下がりがちなことだってある。
しかし、その人に自分はなれない。
同じようにその人も自分にはなれないのだ。
自分はチームの中でどんな役割を担っていくのか?
そのような観点で集団を見ることができた時、
自己肯定感と共にチーム力も上がっていくのだろう。
自分がどのタイプなのか?
そして、相手がどんなタイプなのか?
その多様性がチームを育む。
まさに、「違う」ということが強みになるのだ。




(2)教師の成長「3ステップ」

最近見えてきたこと。
それは「成長には三段階のステップがある」ということ。


第一段階。
自分の核になる理念を探し求める段階。


自分が何を思い、何を目指し、何に向かって歩むべきかを模索する段階。
自分が自分たる所以を確立するために大切な時期である。
この時期はとにかく、多くのインプットとアウトプットを繰り返すことが必要となる。
あらゆるものの考え方にふれ、それを自分なりに咀嚼していく。
それを通じて、自分自身の「核」となる部分が見えてくるのだ。


第二段階。
周りとぶつかりながら、自分自身の核を磨いていく段階


自分が貫きたい「核」をさらに磨いていく段階。
しかし、第一段階とは違い、ここでは周りとの調和が難しくなる。
第一段階では、多くの方々の実践を受け入れ、自分なりに噛み砕く。
しかし、第二段階では、それらをいったん削ぎ落とし、自分の考えを貫く必要があるのだ。
「これだ!」
というものをもつ。
これは大切なことだ。
しかし、それは
「これ以外は受け入れない」という意思表示をすることにも繋がりかねない。
自分にはそんな気はなくとも、相手にそのように受け取られてしまうこともあるのだ。
しかし、「これだ」と思うものをひたすら磨く時間は必要だ。
周りとぶつかり、反省し、また突き進む。
その繰り返しの中で自分の「核」は磨かれていくのだ。


第三段階。
周りと調和しながら、自分の核を貫き続ける段階。



周りと調和する。
これは自分が尊敬する多くの方々の共通点だ。
頭ではわかっている。しかし、なかなかできないのだ。
周りとは違う。突っぱねる。それが自分らしさだ。
などと勘違いした時期もあった。
しかし、最近はそれから抜け出しつつあると感じる。
「ありがとうございます」
と常に感謝の心を忘れず、常に笑顔でいること。
相手を否定することなく、自分自身を保ち続けること。
これが自然にできるようになったら第三段階なのだと思う。
しかし、自分が今まで見てきたなかで、第二段階を超えて、いきなり第三段階にいたる人もいる。それはその人の人徳なのだと思う。

さて、どこまで自分が伸ばせるか。
楽しみである。



(3)手を差し伸べる教師 2つのタイプ

最近感じていること。
それはこの世には「押し上げる教師」と「引っ張り上げる教師」という二通りがあるということ。
「押し上げる教師」はとことん子どもたちに寄り添う。懸命に抱きかかえ、一歩上の階段を這い上がらせる。何をすればこの段差を乗り越えることができるか?それにとことん向き合い、子どもたちを一段一段押し上げていく。
「引っぱりあげる教師」は段の上で待つ。そして、子どもたちが一歩上の段階へ上りたいと手を伸ばし、挑戦し始めたとき、手を握る。そしてひっぱりあげる。
どちらが優れているというわけではない。「押し上げる教師」の良い所は子どもとの距離が常に近いこと。それによる安心感が子どもたちを成長させていく。しかし、自ら手を伸ばし、段差を上ろうとしない子の場合、教師の負担は大きくなる。どんなに押し上げても最終的によじ上るのは子どもたちだから。
「引っぱりあげる教師」は段の上にいる。だからこそ「あそこにいけば良い」という目標が明確だ。学び手が「どうすれば手が届くか?」を真剣に考え始める。自ら手を伸ばし伸びようとした時、必ずそこに支えてくれる教師がいる。
しかし、「押し上げる教師」と悩みは同じ。自ら手を伸ばそうとせずにしゃがみ込む子を、教師は引っぱりあげることはできないのだ。
「押し上げる教師」「引っ張り上げる教師」
タイプは分かれるが、結局は「子どもたち自身が手を伸ばす意志」をいかに耕していくかが重要なのだ。どんなに「上り方(やり方)」を教えても最終的にそれをもとに子どもたちが学び続ける意志(手を伸ばす意志)をもたなければ成長は生まれない。
大切なのは自分がどちらのタイプなのかを理解することなのだろう。
一人の教師が同時に「押し上げながら、引き上げること」はできない。
自分ができないことを補ってくれる人が近くにいること。
そしてお互いに多様性を認め合い、お互いに学びを得ることなのだろう。
そんなことを感じる今日この頃。



(4)光を放つ教師。3つのタイプ。

今までたくさんの先生方を見てきた。
魅力的な先生方は皆、光を放っている。 
しかし、その光の放ち方には違いがあるな。
そんなことを感じていた。
その光の放ち方には3つのタイプがあるようだ。  

一つ目は「スポットライトタイプ」 
スポットライトのように強い光を発する。 
周りを強い光で包み込み、強力な推進力で集団を動かしていく。 
この光に照らされた者は、その強い光によって大きく動きだす。

しかし、皮肉なことにその強力な光は濃厚な陰も作り出す。
光が強ければ強いほど陰は暗く、濃くなっていくのだ。 
また、その人がいなくなった時、一気に闇が訪れる。 
光に頼って行動していた集団は一気に道標を見失う。
力がある先生が異動した途端、理念が失われるのはまさにこの現象だろう。

二つ目のタイプは「間接照明」タイプ。
スポットライトほどの明るさはない。
周りを温め、ぼんやりと暖かく包み込む。 
この人の周りでは、ゆったりとした時間が流れる。

スポットライトのように、消えても突然闇になるわけではない。
その人がいなくなっても戸惑いは少ないだろう。 
しかし、スポットライトほどの強力な光ではないため、集団の道標とはならない。 
ぼんやりと暖かく包み込むことはできるが、集団をグッと前進させるものではないのだ

三つ目のタイプ。 
それは「ろうそくタイプ」だ。 
「ろうそく」は前者とは質を全く異にする。
なぜならば、ろうそくの火は燃え移るからだ。
自分が相手を照らすだけではなく、相手の心に灯をつくりだすのだ。

「すばらしい教師とはどんな教師ですか?」 
昔私が尊敬する先生に聞いたことがある。 
その先生はこう言った。 
「子どもの心に火(灯)をつける教師だ」と。

どんなに強力な光でも、どんなに暖かい光でも、消えてしまったらそれで終わりだ。 
私たち教師はいずれ消える運命にある。 
その時がイメージできるか?  

私たちは何を望むのか? 
「光が消えて、戸惑い恐れおののく姿」なのか? 
「なんとなく手探りに進んで行く姿」なのか?

いつまでも照らしてもらう側であってはならない。
子どもたちはいつか大人になる。 
その時、彼らは照らす側になるのだから。 
照らし、その熱を相手に残し、自分は消えていく。 
「教育」とはその繰り返しの連続なのだろう。

心に火(灯)をともしている子は強い。
なぜなら、常に足元を自分の力で照らすことができるから。
その小さな灯を相手の心に灯し、「火」へ「炎」と燃え上がらせていくことができるから。

「我々の育てたい人間とはどのような人間なのか?」 
「その人間が育つ環境をしっかりと整えることができているのか?」
教師はそこをもう一度問い直す必要がある。 

学校、教師という光が消えた時、彼らが何を頼りに生きていくのか? 
それをイメージできる人間だけが本物の「教師」となれるのだろう。



(5)研究授業のご指導 3つのタイプ 

研究授業の指導を聞いていると2つのタイプの指導が存在するなと感じる。

1つ目は足りない所をあれこれとあげつらうご指導。
いわゆる厳しいご指導。
2つ目はこまごまとした良い所をあげてほめて励まして終わるご指導。
いわゆる優しいご指導。

人間は「ほめられて伸びるタイプ」もいれば「厳しくされて育つタイプ」もいる。
そう考えると研究授業のあとにどんな言葉をかけるのか困るのかもしれない。1時間という切り取られた授業時間を、「いかに教えたか?」という教師中心の視点で見ていけば「厳しさ」「優しさ」の二者択一のはざまで悩む。
「厳しさ」「優しさ」という視点だけでは良い授業をつくりあげることは難しい。

自分が考えるに指導する立場の人にはもう一つの視点が必要なのでないか?

その視点とは「連続したものの一部として看取る」視点。


「授業をみる目」という言葉がある。
ではどのような人が「授業を見る目」があるといえるのか?
足りない所を見抜けること。人の目には見えない変化、すばらしさに気づけること。これらはどちらも「授業をみる目」に繋がっているだろう。
しかしそれは1時間という切り取られた時間にしか適用していない。

指導者には広く広く物事を見る目が必要とされるのではないか?
1時間、1単元、1学期、1年間…長い長い時間の中で子ども達が今どの段階に至っているのか?
それを即座に見抜くことができることが真の「授業をみる目」なのではないか?

一時間の授業を見て「良い」「悪い」は誰でも論じられる。
しかし、この子ども達は今どんな段階なのか?
それを看取り語ることができる教師は少ない。

集団が「形成期」なのか「混乱期」なのか「標準期」なのか「達成期」なのか?それを即座に見抜ける人こそが「みる目」がある教師なのではないか?
そのような目をもっている教師は必ずいる。
しかしその教師があまり表舞台に現れないのには理由がある。それは

子ども達の段階が見えない授業が研究授業として行われているから。
ダイナミックな交流がなければ集団の様子が見えてこない。
わずか5分程度のペア学習を活動として位置づけても、教室の奥底に流れる息づかいは聞こえてこない。


研究授業は「クラスの段階」を話し合う絶好の場面のはずだ。
それを「育っていない」といって教師主導の授業で覆い隠しては何も見えてこない。
研究授業だからこそ、課題を明確にしてダイナミックに交流しクラスの状況を看取る場にするべきなのではないか?
そのうえで指導者は語る。
今この集団がどんな状況であるのか?
その状況をさらに磨いていくには日々何をすべきか?
重箱の隅をつつくようなこまごまとした指導ではなく、広く長い視点を持って、明確に指を指す。
教師がいかに教えるかではなく、子ども集団をいかに磨くかを。


研究授業は担任がクラスの状況をじっと看取る時間。


そんな考えが浸透すれば、互いに授業を見合う時間が苦しいものではなくなる。
「やればいい」
「終わればいい」
そんな研究授業はもったいない。
授業者も、指導者もその1時間を「連続した一部」として感じ語り合う。
そんな価値観が生まれればなぁ。と日々思う。

様々なタイプの子どもたちとどう関わるのか(まとめ)

(1)「学ぼうとしない子」への関わり
(2)「仲良しの人としか関われない子」への関わり
(3)「友達に聞けない子」への関わり
(4)「相手を注意ばかりしている子」への関わり
(5)「決められず、だまりこむ子」との関わり
(6)「指導が通らない子」への関わり
(7)「反抗する子」への関わり 
(8)「自分に自信をもてない子」への関わり
(9)「学ぼうとしない子が一歩踏み出した時」の関わり
(10)「勝ちにこだわる子」への関わり
(11)「答えの丸写しをする子」への関わり
(12)「学びから逃げる子」との関わり
(13)「提出物をもってこない子」への関わり
(14)「集団の足を引っ張る子」への関わり




(1)「学ぼうとしない子」への関わり

いくら言っても学びに向かおうとしない子がいるんです。 
そんな子にはどう接すればいいのですか? 
そんなことを質問された。 


こういう子はクラスに数名は必ずいる。 
このような子の心を耕していくにはどうすればいいのか?


まず、抑えなければいけないのは、その子の心の奥底には「哀しみ」があること。 
それが「怒り」「無気力」となって表れているということ。  


まずこれが理解できないと、その子は教師の攻撃対象になってしまうのだ。 
「あの子はいくら言ってもやろうとしない」 
「あの子はダメな子だ」と。


その子がなぜ学ぼうとしないのか? 
それは「そうしないと自分が守れない」と考えているからだ。
自分がダメだということをこれ以上認めたくない。 
挑戦して恥をかくならば、挑戦しないほうがいい。 
挑戦しなければ少なくとも失敗はしないから。 
そう考えているのだ。


この場から逃げ出す→やらない→やってみる→わかる→できる→説明できる→伝えられる→伝え合える  


人はこの階段を往復しながら成長していく。  
学ぼうとしない子。 
この子は今「やらない」という場所にいる。


この子を成長させていくために必要なことは2つ。  

①この場から逃げ出していないことの価値を語ること 
その子は「やらない」と状況にある。 
しかし、その子は今確かにここにいるのだ。 
学ぼうとしない子の中にはこの場に立とうとしない者もいる。


しかし、その子は今ここにいる。 
やらずにいても、この場にいる。 
それだけでも認められる価値はあるのではないか?  
「あなたは逃げ出していない。それがかしこさだよ。」 


その子を認めた上でかける言葉に力が生まれる。 
この言葉でふせられたその子の心のコップは、少し上向きになる。


②一歩踏み出すことの価値を語ること 
「逃げ出さない。そんなあなたには力があるね。」 
その語りのあとに一歩踏み出すことの価値を語る。  


「スタートを切った数こそがかしこさなんだ」 


これは自分が子どもたちによく語る言葉。 
「成功の数」が「かしこさ」なのではないのだ。
一歩踏み出した数こそがかしこさ。 
これを語り続ける中で「成功」と「失敗」の境界線を薄めていく。 
そして「やってみる」ことの価値を胸に刻んでいく。


「えんぴつをもつ」ということもスタート。 
「教科書を開く」ということもスタート。 
「先生の話を耳を傾ける」ということもスタート。 
「問題を書いてみる」ということもスタート。 


一つでもできたら言えばいい。 
「君は今日一歩かしこさに進んだね」と。


教室の中には「やらない」から「やってみる」の階段の高さがとてつもなく高い子がいる。 
じっと見つめていると、その階段の間にも小さなステップがあることに気づく。 


文句を言いやらない→文句を言わずやらない→文句を言いながらやってみる→文句を言わずにやってみる というように。


「学ぼうとしない子」は二つのタイプが存在する。  


文句をいって学ばない子。 
文句は言わない。しかし学ばない子。  


先ほどのステップが見えてくれば、子どもたちを認める言葉が浮かび上がってくる。


文句を言う子は「哀しみ」を「文句」でおおい隠そうとする。
文句を言わない子は「哀しみ」を「無気力」でおおい隠そうとする。  
どちらのタイプにしても教師のとる行動は同じ。 


①この場から逃げ出していないことの価値を語ること 
②一歩踏み出すことの価値を語ること


踏み出す一歩は小さくていい。  
たとえ学ぼうとしなくても、文句をいっていた子が言わなくなったらそれも一歩だろう。 
やらなかった子が、文句をいいながらもやり始めたら、それも尊い一歩なのだ。


「学ぼうとしない子」を変えていくためにはどうすればいいのか? 
これは荒れ地を耕し、実りをもたらすことの難しさと同じだ。
「0」を「1」にすることは「1」を「2」にすることよりも難しい。


だからこそ、語る。 あらゆる場所で、あらゆる機会で。 
教師のその語り続ける姿勢が、いつか子どもたちを変えていく。
心からそう信じられる人が子どもたちをいつの間にか成長させていくのだ。



(2)「仲良しの人としか関われない子」への関わり
グループが固定化する話。 
友達同士で固まって、学び合いが深まらない。 
そんな場面はどのクラスにでも現れる。 
まあ、それが人としての本能だから、ある意味「当たり前」。 
でも、それを「当たり前だ」と放っておくといつの間にか学びは硬直化して、関係はギスギスしていくんだ。

子どもたち同士が仲良しだけで集まって学びが硬直してきたら、どう声をかけていくか? 
今までいろいろ考えてきたけど、今回は違う切り口での語りを思いつく。

今回の切り口はこんな感じ。

人と人との関係は2種類あるんだよ。
一つは「つるむ・群れる関係」 
もう一つは「友情関係」 
どっちが質の高い関係かはわかるよね?  
そんな風に話を始める。

自分たちが「つるむ・群れる関係」か「友情関係」か? 
その見分け方ってわかる?  
実は、その行動の先にあるものを見つめると見えてくるんだよ。

「つるむ・群れる関係」 
「友情関係」 
この2つには基本的に「楽しさ」があるんだ。 
だって、自分の気の合う人と一緒にいたら「楽しい」もんね。  
でも、「つるむ・群れる関係」は「楽しさ」しかないんだけど、「友情関係」にはそれにもう一つプラスされるんだ。 それはね…


「かしこさ」だよ。 
今、自分たちがやっていることの先に「楽しさ」だけじゃなくて「かしこさ」もあるならば、それは「友情関係」と言えるんじゃないかな? 
でも、そこに「かしこさ」がなければただ「つるんで」「群れて」いるだけ。 
どう?みんなの関係は?

子どもたちの顔色が変わる。 
自分たちの関係をもう一度振り返るような表情を浮かべる。  


この話をしてから、子どもたちに一言で通じるようになる。 
「すてきな関係で学びを深めていこうね」と。

学びが硬直化しても、一言でズバッと伝えるだけ。 
「そんな関係で学んでも、なんの意味もないんじゃないかな?」と。 
すると、それだけで子どもたちは考える。 
「かしこく学ぶ」ってどういうことなんだ?と。

実は、「つるむ・群れる関係」の根底には「楽しさ」以外にもう一つある。 
それは「不安感」だ。 
つるんでいないと不安。群れていないと不安。 
不安だからつるむ。 
不安だから群れる。 
だから、外に飛び出せない。 
ますます硬直化する。

「つるむ・群れる関係」→「楽しさ」「不安感」 
「友情関係」→「楽しさ」「かしこさ」  

教師の仕事は叱ることでも、ほめることでもない。 
子どもたちが自分(たち)の状態をモニタリングできる術を教えることなんだろう。

ちなみに、これは授業中の話。 
休み時間は別に「かしこさ」を追い求める必要はない。 
ひたすら「楽しく」遊べ〜という。 
でも、この伝え方だと廊下を「楽しく」走り出す輩が増える(笑)
だから必ずもう一つ付け加える。  

休み時間は 「楽しく」「安全に」ね(笑)

(3)「友達に聞けない子」への関わり

「友達に聞いてごらん」 
これは協働学習を行う人はよく使う言葉なのではないだろうか?
我々教師は子どもたちどうしを繋げようと考え、この言葉を使う。
しかし、この言葉を聞いてすぐ動ける子もいれば、なかなか動けない子もいる。

なぜこの子は動けないのか?
それには大きく分けて3つの理由がありそうだ。

①信頼関係が薄い 
②何がわからないのかがわからない 
③自分に自信がない


①信頼関係が薄い 
例えば転校してきた子。
人間関係が構築されていないのは当たり前だ。 
その子がいきなり友達に「教えて」と言うのは難しい。 
私たち大人だってそうだろう。 
周りの人間関係が出来上がっている所で、自分一人が入る。 
そんな状況で一歩を踏み出すのは勇気がいるものだ。

こういう子は友達関係が出来上がってくれば自然に「教えて」と言えるようになる。 
焦らず、笑顔でひたすら安心感を刻んでいく。 
まずは担任との信頼関係を築き、それを周りに繋げていくのだ。

②何がわからないかがわからない
そもそも自分が何がわからないのか? それがわからない時、人は「教えて」とは言えないものだ。
だって何を聞けばいいのかがわからないのだから。 
これは③の自信がないということにもつながってくる。

何を聞けばいいかがわからない。 
そんな時間を積み重ねていくうちにその子の心から自信が削り取られていくのだ。 
「友達に聞きなさい」 
確かにこの言葉で長い期間を過ごせば、その子は伸びていくだろう。
しかし、そこには大きな苦痛が伴う。 苦痛を伴う学びはなるべく減らしたい。

私の教室には子どもたちが集まる広場がある。
私はそこに大きなサークルを描いている。 
名付けて「フルティゾーン」 
私はそこの真ん中に座る。 
②③のような子たちをその周りに集め、学びを見守る。 
サークルの真ん中だとその子たちすべての学びが見渡せる。 
体の向きを変えるだけですぐ寄り添える。

「教えて」と言えない子を最も成長させるのは何か? 
それは友達が「教えて」と言う姿だ。 集まった子はみなそれが苦手な子。 しかし、その中で必ず「先生、教えて」といえる子はいる。 
そういう子が出て来た時がチャンスだ。

・「教えて」っていえる人はかしこいなぁ。 
・そういう姿を見れて嬉しいよ。
・やりかたがわかってきたね。 
・次は一人でもできそうだね! 
・いやぁ。伸びたなぁ。… 
円の中からこういう言葉をかけ続けていく。

そのうちに自然に友達に「教えて」という姿は生まれていく。
そして、一人でもくもくと課題に取り組む子が生まれる。 
やり方がわかり、自信が生まれたならば、子どもたちの学びのスピードは上がっていく。 
そういう姿が生まれたらもうサークルからの巣立ちの時だ。

「もう先生がいなくても出来るんじゃない?」 
そこで力強く頷けたらトライさせればいい。 
そのかわりしっかり告げる。
「もしうまくいかなかったらまたおいで!」と。

先生は子どもたちの安全基地でありたい。 
困ったら戻ってこれる。 
だめな時は学び方を学び直せる。 
そんな場所。 
そんな場があれば子どもたちは自然に「教えて」と言えるようになる。 教師の在り方が教室の在り方になるから。

「友達に聞いてごらん」 
この言葉だけでは動けない子どもたち。 
協働学習をするならばこの子たちが苦しまずに学び続けられる場を追求していきたいものだ。


(4)「相手を注意ばかりしている子」への関わり

学び合いの授業を始めた4月当初、よく聞かれる言葉。 
それは 
「せんせ〜い。◯◯くんがしっかりやりませ〜ん。」という声。


子どもたちが共に学び合うと、どうしてもこの言葉が増える。 
一斉授業のように個々が切り離された状態なら、こういう声は少ない。
だって、授業の大半が自分中心の世界にいるから。 
しかし、新年度、集団が習熟していない状態で子どもたちが学び合うと先ほどのような声がたくさん聞こえてくる。


しかし、時間がたつうちにこの声は消えていく。
いや、消していくのだ。
この言葉が消えていくような語りを繰り返ししていく。


相手を注意してばかりいる子。 
この子を注意深く観察していると、「みんなが伸びる」という言葉の意味を勘違いしていることに気づく。 

「みんなができるようにしていこうね」 
という言葉を純粋に信じる。 そ
の結果、相手の非を注意して、相手をできるようにしてあげようという方向に向かってしまうのだ。

しかし、これは大きな勘違いだ。 
大切なのは誰もが「学び続ける」ことだ。 
人はそれぞれ、今いる段階も、抱えている問題も違う。 
十人十色の集団を一把一絡げにして、「みんな」とくくること自体がナンセンスなのだ。


逃げ出す→手が止まる→やってみる→わかる→できる→説明できる→伝える→伝え合える…  

人はこのような段階を経て成長していく。
逃げ出していた子が逃げ出さなくなった。 
それだけで成長なのだ。 
やらなかった子が挑戦するようになった。 
それだけで成長なのだ。

しかし、注意する子は自分の段階より下にいる子すべてを「かしこくない」ものとくくってしまう。 
だから、自分の手を止めてまで、相手の注意を始める。 
それが「正しいこと」と信じて。

しかし、それは違う。 
相手を注意をするということは、確実に自分の学びは止まる。 
それは成長の階段を降りるということなのだ。

「降りなくていいよ。でも心は開いておこう。」 

これは私がよく語る言葉だ。 
やらない子を注意なんてしなくていい。 
それよりも自分の階段を思いっきり上へ突き進もう。 
もし、学ばないその子が本気になって学びたいと思い「教えて」と言いに来た時にいくらでも立ち止まれるようにね。

「みんなが」という言葉には力がある。 
純粋な子であればあるほど、「みんな」のことを考え自分の足を止める。 
でもそうじゃない。 
「みんな」のために突き進むことも大切なんだ。 
でも、みんなが本気であなたを頼った時、足を止めて全力で支えられる人であろう。 
これを伝えられるのは教師だけだろう。

誤解を招く表現かもしれないが、私は集団に「同調圧力」をかけている。 
しかし、その圧力の向かう先は「やり方」ではなく「在り方」だ。
自分の向かう先に「かしこさ」が存在しているか? 
それを徹底的に問う。

この「同調圧力」が「やり方」に向かい始めた時、子どもたち同士の叱責が増えて行く。 
しかし、叱責の先に「かしこさ」はない。 
相手を注意する子は集団の力を示すバロメーターだ。  

「降りなくていい、ただ開いておく」 
これを何度も語ることが教師の大切な役割なのだ。

(5)「決められず、だまりこむ子」との関わり

学び合いの授業は「自己決定」を重ねる授業である。
自分で学ぶ場所、学び方、学ぶ相手を決定し、様々な経験を積み重ねながら自分自身を成長させていく。 
日々自分の頭で考え、「自己決定」を重ねていくからこそ、子どもたちの心は飛躍的に成長していくのだ。

子どもたちが「自己決定」重ねながら学び合う授業。 
この授業を展開するようになってから数年経つが、毎年どのクラスにもこの「自己決定」が苦手な子がいるものだ。  

「自分で考えてやってみていいんだよ」 
「あなたはどうしたいの?」
いくら問いかけても動けない。
決めるのが苦手な子。

その子がなぜ「自己決定」が苦手なのか? 
今までそういう子と接してきてわかったこと。 
そこには大きくわけて2つの原因がある。

①決定することに自信がない(不安である)
②決定をするという経験がない(わからない)

多くの場合はこの両者が入り混じっている。 
自信がないからやったことがない。 
やらないから当然のように自信が生まれない。 
というように。

「あなたはどうしたいの?」 
いくら問いかけても一歩を踏み出すことができない。
このような子を「自己決定」できるように成長させていくにはどうすればいいのだろうか?

「自信」は膨大な「経験」の積み重ねの間に芽吹いていく。 
子どもたちはよくこんなことを言う。 
「ぼく自信があるよ。だからやりたい!」と。 
でも本当は少し違う。  
自信があるからやるのでない。 
「やってみる」ということが自信を育んでいくのではないか。

「自分で決めていいんだよ。」
「あなたはどうしたいの?」 
「自信をもって決めてごらん。」 
この言葉をいくら投げかけても動けない子。
その子にまず必要なのは「一歩踏み出す経験」だ。

先日そんなことを話していたら、若い先生が言った。 
「でも、その一歩を踏み出させることが難しいですよね。」  

うん。その通り。 
「0」を「1」をすることは 「1」を「2」にすることの数倍難しいものだ。

「自分で決めてごらん」という言葉。 
私も昔この言葉をふりかざしていた。
でもある時気づく。 
実はこの言葉はかなりレベルの高いことを要求しているのだ。 
自分から伸びる無数の道筋から、たった1つを選べということなのだから。

私たちが進路決定で悩んだことと同じ。 
私たちが職業決定で悩んだことと同じ。
無数にある道筋からたった1つを選ぶ。
これはすごく難しい。 
「自己決定」の経験が乏しい子に教師が「自分で決めなさい」と言う。 
その子がそれで動けないのは当然なのだろう。

「自己決定」が苦手な子に有効な手立て。
それは「選択の幅を狭めてあげること」だろう。  

「自分で決めてごらん」 
で動けなかったらそれでいいのだ。 
ニコッと笑ってそれを認めてあげる。 
そして、その子に告げる。

「ごめん、ごめん。先生はいきなり難しいことを言い過ぎちゃったみたいだね。」
「決めるってすごく難しいこと。いきなり出来ないよね。」 
この「認める言葉」がその子の不安を取り除く。 
だから次の言葉が入っていく。

「じゃあ、先生が今からいうものの中から選んでみようか?」 
「これが選べる人は、そのうち自分で決められるようなるよ。」 
「1つ目は…する。2つ目は…する。どっちにする?」

①か②を口で言える子は、すぐに「自己決定」ができるようになる。 
選択肢が与えられても口で答えられない子もいる。 
この子は、この「選択する」という経験から積み重ねていくことが必要だ。 
言葉に出せない子は、もっとハードルを下げてあげる。

「①か②。先生が指を出すから選ぶ方を指差してみてね。」 
「先生が今から順番に言うから、選ぶ方でうなずいてね。」 など。 
口ではなく動きで決定する方が「選択」しやすいものだ。 

その子がどこの位置にいるのかを注意深く探る。
そして、その子のスタートラインを見極めていく。

どちらかを選べたら、しっかり伝えてあげる。
それが「決める」っていうことなんだよ。と。
今日あなたは決めることができた。 
あなたはそれができる力がある。
それができる子はきっと伸びるよ。と。

その子はその子のスタートラインがある。 
「自己決定」が苦手な子はその子のスタートラインから初めてあげればいい。 
その子が成長していく姿こそが、クラスを成長させていくから。

「自己決定」が苦手な子。 
その子には「経験」が必要。 
選択することが自分の「かしこさ」につながっていくことを日々感じさせていく。 
その膨大な「経験」の積み重ねの中に「自信」は生まれていく。 
それができるから、子どもたちが「決定する場面」に向き合える学び合いが大切なのだ。


(6)「指導が通らない子」への関わり

「強く指導しているんですけれどなかなか言うことをきかないんです。」

教師はそんなセリフを口にしてしまいがちだ。 
しかし、この言葉の中には大きな矛盾が存在する。 
それに気づけた時、教師の指導は通り始める。

「指導」という言葉。 
これは「指し導く」ということを意味する。 
その子が、集団が誤った方向へ動き出した時、
「そっちじゃないよ。進むべき方向はあっちだよ。」 
と指を指し導いける存在。 
それが「指導者」だ。

しかし、「指導」という言葉は、しばしば違う意味で用いられる。 
何か悪いことをした人を責め立て、今後こういうことがないように戒める。
それが「指導」と考えてしまうことが多い。 
これは「指導」という皮をかぶった「叱責」だ。

「指を指し導く」こと。 
「叱責する」こと。 
知らず知らずのうちにすり変わるこの2つを簡単に見分ける方法がある。 
それは指を指すものの先にあるものを感じることだ。  

前者が指差すもの。 
それは「進むべき方向」である。 

後者が指差すもの。 
それは「過ちを犯した相手」である。

「自分が何をやったのか考えろ!反省しろ!」 
と相手のことを指で指し、叱責の言葉を浴びせる。 
これは「指導」ではない。  

「君の目指すべき道はあっちだよ。」
と進むべき方向を指差し、そっと背中を押すこと。 
それが本当の「指導」のはずだ。

「過去ではなく、未来を見ようか。」 
これは私が大切にしている言葉だ。  

何をしたのか? 
なぜそんなことをしたのか? 
「過去」に焦点をあて続けると、放つ言葉は「叱責」に変わっていく。

やってしまったことはわかったよ。 じゃあどうしようか?
これからどうしていこうか? 
「未来」に焦点を当てると、放つ言葉は温もりをおびていく。

冒頭の 「強く指導しているんですけれどなかなか言うことをきかないんです。」
という言葉の中に存在する矛盾に気づけているだろうか? 
それは「指導」という皮をかぶった「叱責」なのではないだろうか?

「指導」において、指の先に何があるのか? 
それを考えていくと、自分の言葉が相手を成長させるためのものか、自分の鬱憤を晴らすためのものかが見えてくる。

「指導が通らない」 
そう感じた時は、自分の言葉を注意深く見つめてみるとよい。 

その子は「指導」が通らないのではなく教師による「叱責」から自分を守ろうとしているだけかもしれないから。

(7)「反抗する子」への関わり

教師の言うことに反抗し、指導が通らない子がどのクラスにも数名いるものだ。 
何を言ってもへりくつを言う。 
何があっても自分を曲げない。
暴言を吐き、絶対に言うことを聞かない。 
そういう子の心を成長させていくためにはどうすればいいのか?


指導に当たる前に押さえておきたいこと。それは
こういう子は、実は非常に頭が良いということ。
彼らは自分が対峙している大人をよく観察しているのだ。 
すべての言動をしっかり観察し、その上で反抗という選択をしている。


彼らはある意味被害者の側面をもっている。 
大人たちの都合で理不尽に振り回され、指導という名の矢面に立ってきた。 
だからこそ、観察をせざるをえない状況に追い込まれている。 
反抗という選択を取らざるをえない状態に陥っている。 
まずはその認識をいつでも心に留めておきたいものだ。


しかし、だからと言って
「かわいそうな子」
と同情してもその子を成長させることはできない。 
「同情」はその子の成長する力を信じることができない者がする行為だ。 
その子が成長できるということを本気で信じる。 
だからこそもう一歩踏み込むのだ。


この「信じる」という言葉の意味は深い。 
「信じているよ」と言い何も手を打たない。 
これは「信じる」という名の「ほったらかし」。  

「信じる」とは何か? 
それは何も手を打たなくてもできるようになると「信じる」ことではない。 
何度も伝え続けるうちにできるようになると「信じる」ことだ。


しかし、教師の言うことを聞かない子は、教師に踏み込まれることを拒む。
指導されたとたん顔色を変える。 
目つきがするどくなり、口をへの字に曲げる。 
そういう子の心をこじ開けるために、我々教師はどうあればいいのか?


その子がなぜ教師の言うことを聞かないのか? 
それは対峙している大人の言葉に一貫性がないからだ。 
教師の都合、周りの都合で怒られ続けてきた経験がその子の心を支配している。
ではどうする? 答えは簡単だ。 
教師自身が「信用に値する人物」になればいい。


「その先にかしこさはあるのかい?」
この言葉は私がよく問う言葉だ。 
4月から語り続ける「かしこさ」の概念。 
それは子どもたちを認めるためにある。 
それは子どもたちを叱るためにある。


先生の仕事はあなたたちをかしこくすることだよ。 
そのためにできることは先生がたった2つだけだ。 
1つ目は、かしこさに向かっている時には「それでいいんだよ」と認めること。
2つ目は、かしこさと逆に向かっている時には「そっちじゃない」と引き戻すこと


そこから逃げ出す→やらない→やってみる→わかる→できる→説明できる→伝える→伝え合える…  


上に一歩でも進もうとしたら「それでいいんだ」と言う。
しゃがみこんで動こうとしなかったら「違うぞ」と言う。
下に一歩でも進み始めたら本気でストップをかける。  
これが私の仕事だ。


なぜその子は反抗するのか?
それは「自分が叱られる理由を理解できていない」からなのではないだろうか? 
「進むその先にかしこさがない」 という時は全力で止める。 
この共通認識をぶつかり合うことで作り上げていく。  
ここから先は行かせない。 
先生はそれ以上進むと一歩踏み込むぞ。と。


ぶつかり合い、ぶつかり合ううちに、その子は理解し始めるだろう。 
先生は行為の先に「かしこさ」があるかどうかだけを見つめている。と。


それが理解できた時、その子は変わり始める。 
「その先にかしこさはあるのかい?」
その言葉で素直に首を振れるようになる。  
その時は思いっきり認めてあげればいい。 
「それを認められる人はかしこい。必ず伸びる。」と。


今、現在している行為によって「かしこさ」が決まるのではない。 
した行為の後、踏み出した一歩によって「かしこさ」は決まるのだ。  

「できたね」 
「そっちじゃない」
「それでいい」
「ずれてきているぞ」 
「修正したな」 
「それがかしこさだ」…


気の遠くなるような繰り返しの奥に、その子が学び続ける姿を思い浮かべる。
一人になってもきっと学び続けられるようになる。 
それが本当に「信じる」ということだ。


言うことを聞かない、反抗する子。 
その子の心を緩めるのは、優しさという名の甘さではない。 
信念をもってブレずに貫こうとする教師の意志なのだ。

(8)「自分に自信をもてない子」への関わり

「私は頭が悪いんだ」 
「どうせ僕なんかだめなんだ」 
このようにすべてに対して自信をなくしている子。
こういう子はどういう風に接していけばいいんでしょう? 
そんなことを若い先生に聞かれた。  
こういう子はどのクラスに必ずいるはずだ。 


自分に対して自信をなくしている子。 
口では 「ぼくなんて」「私なんて」 と言っている。  
しかし、口で何を言っていても、この子たちは成長したいと心から思っている。 
伸びたい、成長したい。 
そう思わない子なんていない。

この子たちは一歩を踏み出すことを恐れている。 
その恐れが言葉となって表れる。  
「どうせ」という言葉で踏み出さない理由を。
「ぼくなんか」という言葉で踏み出して失敗した時の言い訳を

先日、ある先輩先生と話をする機会があった。 
芯が通っているが、柔らかくてすばらしい先生だ。 
その先生に質問した。 
「子どもたちを育てる上で大切なことは?」と。 
その先生の答えは鮮やかだった。

その先生の答え。
それは 
「認めること」  

この答えは自信を失った子にとってとても大切なことなのだと思う。
小さな一歩を認める。
小さなチャレンジを認める。 
その積み重ねが心を耕し、自信を芽生えさせる。

しかし、その先生の素晴らしい所はその先にある。 
その先生は 「ほめる」ことと「認める」ことの線引きをしっかりとしているのだ。 
この2つは似ているようで、まったく違うもの。 
「すごいね」「えらいね」は褒める言葉。 
「できたな」「伸びたな」「それでいいんだ」は認める言葉。

「ほめる」ことが悪なのではない。 
ほめてはいけないわけではない。
ただもっと「ほめる」ことに注意深くありたいということだ。 
知らず知らずのうちに「ほめる言葉」は「媚びる言葉」に変化する。 
当たり前のことを大げさにほめる。 
その先にその子の成長はあるのか?ということだ。

自信がない子に自信を刻むにはどうすればいいのか? 
そのためには「認められる経験」を積み重ねていくしかない。 
「できたね」「やってみたね」「それでいいんだ」
そういう言葉をかけ続ける。 
そして、言えばいい。 
「どんどんやってみようぜ」と。

その言葉でクラスを包み込んでいく。 
そのうちに子どもたちどうしがお互いを認め始める。 

教師→自信のない子 
という道筋だけではなく 
友達→自信のない子 
という認め合いの道筋ができあがっていく。


悲しいことに、教師とは「消えていく存在」なのだと思う。
刻み続けて、刻み続けて、最後にその子が自分の言葉としてそれを口にし始めた時、教師の仕事は終わるのだろう。  

自信がないからやらない。 
ではなく 
自信がないけどやってみる。 
自信がないからこそやってみる。 

そう言える子に。
ありとあらゆる場を使って刻み続ける。 
年間を通して何度も何度も。  
そんな中でいつの間にか自信は育まれていくものなのだろう。 

自信は「つけるもの」 ではない。
繰り返し伝え続ける中で
いつの間にか「ついているもの」 なのだろう。

(9)「学ぼうとしない子が一歩踏み出した時」の関わり

どうしても学ぼうとしない子がいた。 
しかし、その子が今回理科のテストで100点をとる。 
それから何かが変わりだした。 
鉛筆を持とうしなかった国語の時間。 
自分の考えをつづり始める。 
算数の時間。 友達と一緒に学び始める。

学ぼうとしない子の心の根底には何があったのか? 
そして、その子の心を変えていくためにはどうすればいいのか?  
その子との半年間の関わりの中で少しずつ見えてきた。 
忘れないように少しまとめていきたいと思う。

まず、一番大切なこと。
それは 「誰もができるようになりたい」
と願っているということ。 
その子は100点をとった時ガッツポーズをした。 
心から喜びがあふれていた。 
「どうせやったってだめだ」 
なんて嘘だ。 
人は誰もができるようになりたい。 
人は誰もが成長したいと願っている。


学びに対して心を閉ざしている子。 
そういう子に必要な言葉も学んだ。
彼らは基本的に誰かに質問することをためらう。
だって、その質問が 「誰から見てもレベルが低いもの」と感じているから。

もし、自分が外国も学校に1人転校したら? 
そんなイメージかな? 
黒板にめあてが示され、クラスメートは皆、そのめあてに向かって学びを進めている。 
しかし、自分はそのめあてが読めない。 
そこで 「なんて読むの?」 なんて聞けるかな? 
自分だけ人とは違うレベルことが浮かび上がるだけ。

だから、学びに対して心を閉ざしている子には「心をノックする言葉」が必要だ。
それは、褒め言葉でも、叱責する言葉でもない。 
ただ 
「何か困っていることはないかい?」
と寄り添う言葉だ。

「いつも本気で学んでいる君の鉛筆が止まっているってことは、何か困っていることがあるんじゃない?」
そっとその言葉でノックしてあげる。 
すると、心を閉ざしている子も安心して扉は開けられる。

「何か困っていることはない?」 
その言葉に強く頷いた時は一言言って遠ざかる。 
「困ったことがあったら何でも言うんだよ。」と。 
その繰り返しが心が閉じた子には必要だ。


それともう一つ大切なことがある。 
それは 「自分で決めることを認める」 ということ。 「
どこまでやる?自分で決めていいよ。」 
選択できることを示す。
たった一行でもいい。 
大切なのは「明日につなげる」ということだから。

でも、子どもって面白いもので、結構厳しい選択をする。 
「もう十分できているんじゃない?終わりにしたら?」
なんて私がいっても 
「いや。ここまではやる。」
なんて言ったりする。 
以前はあんなに学びから逃げていたのに…。

選択できる。尊重される。 
これは心を開く重要なファクターだ。

そして、最後に一つ大切なこと。 
それは「繰り返せること」
今日という日が連続した一つの部分と捉えられるから、安心して言葉かけができる。 
「少しずつできるようになるよ」と。 
今日で終わりじゃない。
明日再チャレンジ。
繰り返せるシステムが安心感を生む。


ここ数年 
「継続できるシステム」
「繰り返しを生む場づくり」
について研究を進めてきた。 
しかし、それだけでは足りない。
システムが機能するためにはそれを支える「あたたかさ」が必要だ。
繰り返しを生む場をつくるためには「安心感」が不可欠だ。

自分自身の関わりの中で足りない何かが見えてきた。 
「わかる」から「できる」に高まるまでもう少し。

(10)「勝ちにこだわる子」への関わり

今日の職員室での会話。
運動会の練習。
勝ち負けにこだわり、勝手は相手をバカにし、負けては文句をいう。
そんな子がいるとのこと。

そういう子が学年には必ず数名いるものだ。
さて、こういう子の心をどのように耕していけばいいのか?

この子は「勝ち」こそが「価値」だと考えている。
これはしばしば向上心のように勘違いされる。
しかし、実際はそうではない。
だってこの考え方は裏を返せば
「勝たなければ、価値がない」ということだから。

この世の中に「連戦連勝」はありえない。
「勝たなければ価値がない」
この考え方で突き進んでいくと、この子の心は劣等感でズタズタに引き裂かれていくだろう。

私は「勝負」という言葉があまり好きではない。
なぜならこの世を「勝ち」「負け」という一本の線で隔てることに「かしこさ」を感じられないから。

「優勝」という言葉も好きではない。。
なぜなら「優勝」とは実は
「優勝劣敗」(ゆうしょうれっぱい)の頭文字だけが残ったものだから。
「優」れているものは「勝」ち。「劣」っているものは「敗れる」・・・。
本当にそうだろうか?


勝ったあと、相手をバカにする勝者いる。
自分が負けても相手に本気で拍手をおくる子がいる。

勝っても、劣っている者がいれば、負けても優れているものがいるのではないのかな?

「かしこさ」は勝ち負けの先にある。
私はいつもそう考えている。
「かしこさ」は決して「勝ち」の先だけにあるものではない。

勝ちにこだわる子の子に刻みたいこと。
それは

①勝った先にも、負けた先にも「かしこさ」は存在すること
②勝った先に「かしこさ」が存在しない時もあること
③勝者よりもかしこい敗者が存在すること

これをあらゆる場面で語り続けていくことが大切なんだろうな。

(11)「答えの丸写しをする子」への関わり

先日、ある若い先生に質問をされた。 
なるほど、これは確かに誰もが悩むことだなぁ。 
そんな風に感じたので、少しまとめておこうと思う。 

その先生から受けた質問。 
それは 
「学び合う中で、答えや人の書いているものを写して終わってしまう子がいるのですが、それでいいのでしょうか?」
ということ。

人の書いているものを丸写しにして、それで学習を終える。 
それの繰り返しの中で本当に力はついていくのか?  

うんうん。 そういう疑問を抱く気持ちはすごくわかる。 
自分もその気持ちの中でずっともがいてきた。

しかし、今ならはっきりと言える。 
「その学び方でしっかりと力はついていくよ」と。 

その子の気持ちになって考えてみるといい。
その子がなぜまねをするのか? 
それは「不安」だからだ。
その子は自分の学びに自信がもてない。
だから人のものの丸写しをしているのだ。

長い人生を送っていく中で、その子に必要なこと。
それは
「経験を積み重ねる中で自信を胸に刻んでいくこと」だろう。  

かしこさには段階がある。
教室から逃げ出す→手が止まる→やってみる→わかる→できる→説明できる→伝えられる…  

ここで大切になってくるのは、上にいれば「かしこい」のではないということ。
現在地は関係ない。
一歩でも上へ向かおうとする人が「かしこい」人なのだ。

課題を丸写しにする。 
この行為を目にすると、誰もが口を揃えて言う。 
「その行為はかしこくはない」と。 

しかし、本当にそうなのだろうか?  
その子はきっと学習に苦手意識を感じているのだろう。 
普通ならその時点で学びから逃げ出す。 
しかし、その子は逃げ出さずに挑戦しているのだ

人のかしこさとは現在「どこの場所にいるか?」ではない。
どこの場所にいてもいい。 
その場所から上を見つめ、一歩踏み出せる人こそ「かしこい人」。

もう一度問う。 
苦手でも、写しながら向き合おうとしている子。 
その子は本当にかしこくないのだろうか? 
答えは「NO」のはずだ。

その子に足りないのは「経験」と「自信」なのだ。 
それが積み重なっていけば、人は誰でも自分で一歩を踏み出し始める。 

今のクラスの子の中で、昨年丸写しをし続けた子がいた。 
その子は今年進級して、学び方が変わった。 
友達を離れ、一人でまとめをする姿がしばしば見られるようになったのだ。
「経験」と「自信」の積み重なりは、子どもたちに一歩踏み出す勇気を与える。 

「学ぶ」ことは「まねぶ」こと。 
私のクラスでよく語ることだ。 
わからないことはまねから始めればいいのだ。

「まねをする→まねをされる→まねをしあう」 
この順番で人の学習の質は向上していく。 
もし丸写ししている場面を見つけたら、ほめてあげていいではないか。 
丸写ししている子は「まねをする」という段階にいるのだから。 
丸写しされている子は「まねをされる」という段階にいるのだから。

「あなたはまねをしながら向き合おうとしているんだね。すばらしいね。」 
「まねされているあなたは、この人がまねをしたいと思えるいい学習をしているんだね。」 
「まねをされるってことは、あなたに安心して聞けるってことだね。バカにするような人だったら、こんなに安心して学べないもんね。」

まねをする子もまねをされている子もどちらも賞賛に値するのだ。
そして最後に付け加える。 
「お互いにまねをし合える関係になったら、さらに一歩上に登ったことになるね。」と。

丸写しをするだけで学習を終える。 
短期間で考えたら、すごく不安になるだろう。 
しかし、その子に大切なのは、丸写しをしながらも学習に向き合う経験なのだ。 
これをじっくりやらせてあげることなしに、子どもたちが自然に歩み始めることはない。



(12)「学びから逃げる子」との関わり

子どもたちを成長をさせていくために大切な視点について考えている。
枝葉ではなく、根っこを握る。 
それだけで子どもたちは伸ばしていける。 
その根っことはどこにあるのか?

キーワードは 
「選択」と「責任」
ということ。  
自分の授業を貫く核はここにある。
とことん「選択」させ、出た結果を引き受ける。 
それを毎日毎日積み重ねていく。 ただそれだけなんだ。

しかし、これは簡単なようで難しいことなのだ。 
だって、多くの教師はこんな風に思っている。 
「子どもに選択なんてさせたら、何をするかわからない」 
「選択なんてさせるなんて発達段階的にまだ早い」
「教えるべきことに手一杯。選択なんてさせているひまはない」

そう考える教師に問いたい。
「じゃあ、いつどこでそれを学ぶの?」と。
学校で「選択」と「責任」を学ばずに社会に出る。
「選択」と「責任」という武器を持たずに手ぶらで社会に出かけていく。 
いちかばちかの大勝負が毎年繰り返されていく。

「何を学ぶか」の選択は難しい。
だからこそ 
「どう学ぶか?」
という選択を学校で積み重ねていく。
学ぶ内容は教科書に書いてある。 
それを体得するためにどう学ぶか? 
学ぶ場所、学ぶ仲間、学ぶ道具…。 
「学び方」は自由に選択できる。 
その感覚を日々刻み付けていく。

「学びから逃げる子」
この子に共通して見られるのは「責任」をとりたがらないことだ。 
「俺がこうなったのはあいつがこうしたからだ」 
「俺があんなことをしたのは、みんながこうするからだ」 
というように。
「責任」を周りに受け流し、直視せず、拒みながら毎日を積み重ねていく。

そういう子にどうしたら「責任」を学ばせることができるのか? 
そのために必要なものが「選択」という言葉。
周りが何を言おうと、周りが何をしようと、周りがどうあろうと、 自分の行動は自分で選択できる。 
ということを刻み付けていく。

どんな行動であろうと「選択」の先にある行動は子どもたちを成長に導く。
勉強をしないなら、胸をはって言えばいいのだ 
「わたしは勉強をしません!」と。  
自分で選んだという感覚をもって勉強しないことと 
周りのせいにして勉強から逃げることとは 
同じ「逃げる」でも天と地の差があるのだ。

「学びから逃げる子」の多くは「それを選ぶのか?」と聞くと拒否反応を示す。 
「責任」を引き受けたくないから。 
「選択」させられていると思い込みたいから。  
そっぽを向く、暴言を吐く、逃げ出す…。 
ありとあらゆる行動をして、「選択」と「責任」から目を背けようとするだろう。

怒ることも、笑うことも、泣くことも、逃げ出すことも…。 
すべては自分が決められる。 
「それを選択するんだね」 
という言葉で心の軸を「周り」ではなく「自分」に戻していく。

「自分が選択できるんだ」 
「自分で選択したんだ」
と思える子は伸びる。 
「責任」を受け入れ、経験を自分の中に落とし込んでいくから。 

「自分は選べない」 
「みんながそうさせる」
と思う子は腐る。
「責任」を拒み、経験が自分の外に流れて去っていくから。

「百万円札」などない。 
「百万円」は「一万円」が積み重なってできたものだ。 
選択もまた同じ。 
「大きな選択」もまた同じ。
「大きな選択」は「小さな選択」が積み重なってできていく。

「大きな選択」は「するもの」ではない。
気づいたら「しているもの」なのだ。  
この感覚は「小さな選択」を積み重ねていったものにしかわからない。 
だから、刻む。 授業で、日々の生活で。 
教師の仕事は勉強「を」教えることではない。
選択する感覚を勉強「で」教えるのだ。

(13)「提出物をもってこない子」への関わり

武器をもつと相手も武器をもつ。 
武器を握ると相手も武器を握りしめる。  
人間関係なんてそんなものだ。 
相手との関係は自分が武器をもつか捨てるかで決められる。

提出物を全然出さない子がいた。 
いくら言っても提出物をもってこない。 
「ない」 
「わからない」
「あっ。わすれた。」 
それのくりかえし。

「またか!ちゃんともってきなさい!」 
「明日もってこなかったら家に戻ってとってきてもらうぞ!」
落胆と怒りの入り混じった感情で私は思わず口にする。 
その子は「はい」と返事する。 
しかし、次の日はやはりもってこない。

「提出物をもってくる」 
ということがいつのまにか 
「どっちが強いか」 
という勝負にすりかわっていく。

そんなことに気づいてから言葉を変えてみる。 
今日も提出物を忘れた彼。 
冷静に伝える。 
「わすれちゃったか〜。これがないとすごく困るんだよね。明日はもってきてくれるかい?」
うなずく彼。
「でも家に帰るとわすれちゃうよね。それわかるな。どうすればいい?」

彼は考えてから言う。
「手に書く。」
そこで私は言う。 
「そうか。それじゃあ先生が見えるように書いてあげるよ」
彼の手の甲に見やすく提出物の名を書く。
少し彼は嬉しそうだ。

「じゃあ、明日はこれを見てもってきてね。協力お願いね。」
優しく言って、話を終える。  
しかし、彼もまた歴戦の猛者だ。 
次の日…。
またしてももってこない。  

「あらら。今日もわすれちゃったか。」
今までの私はここでカッとなっていただろう。 
しかし、笑いながら彼にこう告げる。

「よし!じゃあ、もっとわかりやすくするために今日は両手の甲にしてみよう! 色もカラフルにしようか。」
彼はニヤッと笑ってうなずく。
かくして、彼の両手の甲にはカラフルに提出物の名が刻まれる。 
それを見つめながら彼が聞いてくる。

「先生。もしね。あしたもわすれたらどうなるの?」 
私はニヤッと笑って答える。
「う〜ん。手の甲じゃ気付かないってことだから、ほっぺに書こうかな(笑)油性でね(笑)」 
「え〜!!」 
「おひげみたいに書いてあげてもいいよ。」 
「やだ〜!」 
「あはは。冗談だよ!あしたはもってきてね。」


すると、次の日に驚いたことが起きる。
なんと。 
朝、職員室に自分から彼がやってきたのだ。 
そんなことはいままで初めてだ。 
顔はニコニコして、何かを隠し持っている。 

「先生。今日さ〜。じゃ〜ん!」 
隠し持っていた手から出てきたのは提出物。 
「おお〜!」と私。

「うわ〜。うれしいな!ありがとう!でも、ちょっと残念。今日は顔に書けると思ったのに〜!」 
「あはははは。それはやだもんね〜!」 
「冗談冗談。本当に助かったよ。忘れずにいてくれたんだね!ありがとね。」  
そんなすてきな朝のスタートだった。

武器を握ると、相手も武器をもつ。
「提出物を出す」 
ということがいつのまにか 
「どっちが強いか?」 
ということにすりかわる。  
それに気づけば、やるべきことはシンプル。
こちらが武器を捨てればいい。 
それが、「相手を認める」ということ。

忘れたから否定する。
もってきたから称賛する。
ということではない。
そうではなく、忘れても、もってきても彼は彼。
楽しみながら、一緒にどうするか考える。 
それが、「行動の結果と相手の人格を分離する」ということ。

「無敵」 という言葉にはふた通りの解釈がある。  
ばったばった敵をなぎ倒し、頂点に立つ。 
それが「力で創りあげる無敵」だろう。 

しかしそれに対して「心で創りあげる無敵」も存在する。 
相手を認め、受け入れ、寄り添い、楽しむ。 
その中で「敵となる人がいなくなる」 
それが「心の無敵」

敵うものが存在しないという「無敵」 ではなく 敵と感じる人が存在しない「無敵」へと。  
しなやかに向かっていきたいな。 
彼にはいろいろなことを学ばせてもらった。
気付かせてくれた彼に感謝だ。


(14)「集団の足を引っ張る子」への関わり

勉強をしようとしない子。 
集団の足を引っ張ろうとする子。 
教師の言葉にいちいちつっかかってくる子。  
そういう子がクラスにいる場合、集団の学びの速度が著しく遅くなる。 
しかし、そういう子も含めて「学級」だ。 
その子を学びの和に引き込んだ時、クラスという集団はぐっと成長する。

では、どうやってそのような子を集団に引き込んでいくか? 
これを実現させるためには教師の大きな覚悟を要する。 
「その子を決して見捨てない」 という覚悟。
そして、 「だからこそ、あえて深く関わらない」という覚悟だ。

「この子をなんとかしたい」 教師がどんなにそう強く願っても、その思いは届かない。 
たとえ届いたとしてもそこまでに莫大な時間を要するだろう。 
クラスにはその子以外にもたくさんの子どもたちがいる。 
その子の心を動かそうとする影で多くの子がほったらかしにされる。

「その子を見捨てない」 という覚悟ゆえに「深みにはまらないようにする」のだ。 
これは
「 その子をほったらかしにして、好き勝手にさせろ」
という意味ではない。 

その子を取り囲むクラスの子どもたちの心を耕せ。ということ。 
外堀を埋めずして本丸に侵攻はできないのだ。

そこで必ず集団に語ること。 
それは「リーダー」と「ボス」の違いだ。 
集団を上へ上へと引き伸ばそうと力をつくす子は「リーダー」。 
自分のことだけを考え、自分の都合だけを優先し、そのために集団を引き下げる行動をする子は「ボス」。 
集団を引っ張る子にも2つのタイプがいることを語る。

これを語る時、子どもたちの心の中には具体的な子が浮かび上がる。 
そしてその子が「リーダー」か「ボス」かを推し量り始めるのだ。 
今まで集団を引っ張っていく強さへの憧れという視点しかもたなかった子に「分析」という視点を与えていくのだ。

しかし、それを語るだけでは足りない。 
なぜならば、「リーダー」は決して一人では「リーダー」にはなれない。 
同じくして「ボス」も一人では決して「ボス」にはなれないのだ。

「先生」という言葉で例えるとわかりやすいかもしれない。 
子どもが一人も通ってこない教室で「先生」は存在できるだろうか? 
その答えは「NO」だろう。 
「 子ども」たちがいてこそ「先生」を名乗れる。 
「先生」という存在を支えているのは「子ども」たちの存在なのだ。

「リーダー」も「ボス」もそれと同じ。 
「 リーダー」を支える「フォロワー」がいてこそ「リーダー」は存在できる。 
「ボス」を支える「フォロワー」がいてこそ「ボス」は存在できるのだ。

ここまで話していくと、さっきまで「リーダー」と「ボス」の友達に目を向けていた子の視点が変わり始める。 
その子を支えている「フォロワー」つまり「自分自身」に目を向け始めるのだ。 
自分はクラスを成長させる「フォロワー」か? 
それともクラスを停滞させる「フォロワー」か? ということに。

リーダー気質の2割。 
ボス気質の2割。 
中間の6割。  

集団の舵を握っているのは実は中間の6割なのだ。 
その子たちがどちらを「フォロー」するかで集団の質は決まっていくのだ。

「上へ上へと伸びていこうとするクラス」 
「困ったら手を差し伸べてもらえるクラス」 
そんなクラスと 
「誰もが自分のことしか考えていなく好き勝手に行動するクラス」 
「都合が悪くなると切り捨てられるクラス」  

あなたたちはどちらのクラスを望んでいるのですか? 
そう強く子どもたちに問う。

先生は上へ上へ伸びていく、手を差し伸べあうクラスをつくりたい。 
しかし、それを選ぶのは君たちなんだよ。 
その選択を握っているのは「ぼくなんか」「わたしなんか」と考えている「フォロワー」の君たち一人一人なんだよ。  

強く強くそう語るのだ。
ここまで来ると、教師の話に横槍を入れる子は消えていく。 
もしもいたとしてもそこで釘をさせる。 
「その言葉は集団を引き上げる言葉なのかい?」と。 
その言葉一つで自分たちのクラスを率いていた子が「リーダーシップ」ではなくただの「ボスの支配」だったということに多くの子が気づいてしまうのだ。

先生と共に過ごせるのはたかだか1、2年。 
しかし、この仲間たちとの仲はそれよりも長く長く続く。 
だからこそ、友達を、集団を見極める目をもたなくてはならないんだよ。 

これは小学校であっても、中学校であっても、大人であっても変わらない。 
人はかかわりの中で生きていくのだから。

しかし、ここで決して伝えることを忘れてはいけない言葉かけがある。 
それは「ボス」が「リーダー」に生まれ変わる瞬間があるということを伝えることだ。 
そして、その変化を促せるのも「フォロワー」の力だということだ。

「ボス」はもともと人を惹きつける魅力があるのだ。 
人をぐっと引っ張る力があるのだ。 
ただ、その力を使う方向性が違うだけなんだ。 
だから「ボス」であるからといってその人を切り捨ててはいけないんだ。 
その子の力の使い方の方向が変わればクラスは大きく前進するんだよ。

これを語ることで「ボス」も含めてクラスだということをしっかりと伝えていく。 
「リーダー」も「ボス」も「フォロワー」も。 
すべての子がクラスにとってかけがえのない存在なんだ。 
そう強く強く伝えていく。

これが冒頭に述べた、 
「クラスの学びを阻害する子を見捨てない」という覚悟。 
そして 「その子個人にあえて深く関わらない」という覚悟だ。 
周りの子の心をぐっと引き上げていく。 
そして、その子を包み込んでいく。

問題が起きた時、常に全体に語る理由はここにある。 
問題行動を起こす子だけに問題があるわけではないから。 
そしてその子を変えられるのは周りの子だけだから。

問題を起こす子を集団から切り離しても何の意味もない。 
大切なのは周囲の子が自分の属している集団を看取り、修正していく力をつけること。  
それがこれからを生きていく子どもたちに必要な力だと信じている。
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