学び続ける教師のまとめ

小学校教師雑記帳。 日々考えたことのまとめ。

「一人も見捨てない」という言葉の危うさ

「一人も見捨てない」という言葉のもつ危うさ

「1人も見捨てない」という言葉。

これは『学び合い』においてしばしば合言葉のように使われる。

しかし、私は学級にこの言葉を決して語らない。

それはこの言葉がなぜか自分の考えにしっくりこないからだ。

なぜしっくりこないのか?少し考えてみる。



まずは単純に言葉の響き。

「1人も見捨てない」という言葉は強い言葉。だから心に響く。

しかし、それは逆に危険。

「見捨てる」というマイナスの言葉と

「ない」という否定語。

これらを使い続けるべきではない。と直感的に感じるから。

マイナスの言葉は無意識をむしばむ。



次に言葉の意味。

「1人も見捨てない」という言葉は

「絶対に誰かが見捨てる」

という前提に立っている気がする。

この言葉は子ども達の「自己肯定感」を知らず知らずのうちに下げてしまう気がする。

「お前達はすぐに人を見捨てる!1人も見捨てるな!」

と言われている気がするのだ。



「どうして見捨てる?1人も見捨てるな!」

よりも

「あなた達はみんなで伸びていく力があるのに何をやっている!あなた達らしくない」

と言いたい。



「できないこと」ではなく「本来できること」というスタンスに立って話がしたい。

その言葉で子ども達の自己肯定感を引き上げていきたい。

大事なのは

「相手を見捨てない気持ちを持ちながら、どれだけ自分のもつ目的に向かっていくか?」

なのに、

「相手を見捨てない」(おせっかいをする)という目的にすり替わってしまう。

これに気づけないとクラスが崩れてしまう。



「1人も見捨てない」という言葉は「自分」と「相手」の間に埋められない溝があることを前提としていれる感じがする。

「うまらない溝をとびこえろ!」という感じ。

「個」と「個」が切り離されているように感じる。

「個」と「個」の間に溝なんてない。 

「私が見捨てない」ではなく、「私達が支え合う」ということ。 

「私」を切り離さず、「私達」に。



「1人も見捨てない」という言葉はゴールにすべきではない。

その先にあるゴールを見据えないと「1人も見捨てない」という言葉は生きてこない。




ではその先にあるものとは?

それは 「学び続けられる」であろう。

「学び続ける」ためには、みんなが安心して学習に向かえる環境が必要。 

「学び続けていく」ために、「1人も見捨てない」環境を創り出すのだ。

「1人も見捨てない」は「学び続ける子ども」を育てるための手段でしかない。 

多くの教師に問えばわかる。

「あなたは子どもを見捨てていますか?」と。

多くの教師はきっと答えるだろう。

「見捨てていません。一生懸命やっています!」と。


教師は鈍感だ。見捨てていることに気づいてさえいないのだ。

「1人も見捨てない」は自身を客観的に振り返るためにはほぼ意味をなさない。


しかし、「学び続けられる」は違う。

「あなたの子ども達は、どんな状況でも学び続けられますか? 」

「教師がいてもいなくても、呼吸するように当たり前に学び続けられますか?」

そう問えば誰もが首をひねる。



できる子も、(今はまだ)できない子も、腐らず真っ直ぐに学び続けられるか?

そこを見つめる必要がある。


「1人も見捨てない」を全面に押し出し、

それが「学び合い」かのように語ることは危険だ。

西川先生がブログで書かれたように、「1人も見捨てない」という言葉は簡単に口にすべき言葉ではない。

これは教師の心得として胸の奥にしまっておくべき言葉。

振りかざす言葉ではない。

「1人も見捨てるな!」

「全員だ!」

これを振りかざすことの鈍感さに気づけているか?それを問いたい。

「一人も見捨てない」は劇薬

「一人も見捨てない」という言葉に対する考察。 

『学び合い』におけるシンボル的な言葉。 
この言葉があるからこそ『学び合い』はここまで大きく形を成してきた。 
この言葉の効力は絶大である。 
だからこそ、私も今の見地に立てている。
出会えて感謝している言葉の1つである。

自分も含めて多くの人を惹きつけるこの「一人の見捨てない」という言葉の力。 
敬意を評しながら、この言葉について少し分析をしてみたいと思う。


「1人も見捨てない」 という言葉が多くの人の心を焚きつける理由とは?

(1)言葉のもつ響き
それはこの言葉が心に刺さる言葉であるからだ。 
「見捨てる」という否定的な言葉。 
そして「ない」という否定的な言葉。 
これが組み合わさっている。
だから 「見捨てない」という言葉は誰もかもハッとさせる絶大な力をもっている。

(2)だれもがこの経験をしている
「見捨てる」 という行為は人であれば誰もが経験したことがあることである。 
あの時、あの行為、あの態度、あの言葉。 
あれは考え方によっては「見捨てた」ということなのではないか? 
人の心を刺す。
だからこそ、その言葉の力に惹かれる。

(3)言葉の及ぶ範囲が変幻自在
「見捨てる」という言葉もつ範囲が個人によって違うということも、この言葉の絶大な力を支えている。 
「地球上の1人も見捨てない」なのか 
「日本人の1人も見捨てない」なのか 
「学校の1人も見捨てない」なのか 
「クラスの1人も見捨てない」なのか…

その人の立場、成長、視点の変化によってその範囲が変化する。 
だからこそ、「一人も見捨てない」という言葉は変幻自在であり、多くの心に突き刺さる。

(4)概念の解釈がぶつかり合う
「見捨てる」の概念がぶつかり合うのだ。 
良くも悪くも。
「村八分」という言葉。 
これは「見捨てている」のだろうか? 
それとも「見捨てていない」のだろうか?

のけものにしている「八分」に目を向ければそれは「見捨てている」ことになる。 
しかし「葬式・消火」の「二分」に目を向ければ決して「見捨ててはいない」ということだ。

しかし、これは語る教師と子どもの関係性でも同じことが起きることを意味する。 
教師は「八分」を見て「見捨てている」と語る。 
しかし子どもたちは「二分」を見て見捨てていないと語る。 
もちろん逆もありうる。 
教師が「見捨てていない」と思っても、子どもたちが「見捨てている」と語ることもある。

「見捨てる」 という言葉の概念がどこからどう見るかでまったく違うものになる。 
だからこそ、摩擦が起き、議論が起きる。  
その摩擦の数だけ、この言葉の意味は深まり、磨かれていく。 
これが絶大な力を生み出している。


…と、
このような理由からこの「一人も見捨てない」という言葉は多くの人々の心に響き、その価値を気づかせてきた。
だから、こそ一歩立ち止まって考えたい。
力をもっている言葉だからこそ、この言葉を使うことに慎重になったほうがいい。
「1人も見捨てない」という言葉は劇薬だ。
薬だから、集団を救うこともある。
しかし、集団を死においやることもあるということだ。

人々を一瞬にしてハッとさせる力があるからこそ、
少し使い方を誤れば、直ちに集団を崩すこともある。 
ここが難しいところなのだ。
なぜ、この言葉が集団を崩すことがあるのか?
その理由をまとめてみる。

(1)すべてを浮き彫りにする
「見捨てるな」 
「見捨てている者」と「見捨てられている者」の存在を浮き彫りにする。 
良くも悪くも、集団の状況を照らす。 
強い光は、濃い影を生み出す。 
そういうものだ。 

「ああ。私は見捨てていたのね」
と気づくことと同時に
「ああ。私は見捨てられていた(いる)のね」
と気づく子もいるということ。

影が色濃く浮き出ることを受け入れた上でその浮き出た影を成長につなげられるかどうか? 
つなげていく意志をもって「見捨てるな」と語ればそれは「薬」となる。
しかし、その力のみを求めて振りかざし続けるとそれは「毒」となる。


(2)「見捨てている」と主観で評価してしまう

「見捨てる」という行為が何を指すのだろうか?  
「見捨てる」と「見守る」はどう違うのか? 
「見捨てる」と「見逃す」は何が違うのか? 
「見捨てる」と「見落とす」は? 
「見捨てる」と「見過ごす」は…??

その微妙なニュアンスもすべて一刀両断し 「見捨てている」と評価してしまいがちになる。 
言い訳を許さない言葉。
だからこそ、それがこの言葉は絶大な力をもっているのだ。

もし、この言葉を使うならば、1つ1つの違いを子どもたちに語る営みが必要になるだろう。
「見捨てる」という行為とは?

「見守る」とはどう違うのか?
「見逃す」ことは見捨てることか?
「見落とす」は?
「見過ごす」は…??
なぜ、そうなるのか?

それをつなげていかないと、「見捨てないの押し付け」になってしまうのだ。
「見捨てる」 という言葉の解釈が多角的な視点で見ると変わってくる。 
これに気づいている教師が「見捨てるな」と語ればこの言葉は「薬」となる。 
しかし、これに気づかずにふりかざす「見捨てるな」は「毒」となるだろう。

(3)「見捨てる行為」が浮かび上がる
人の脳というものはおもしろいもので、その人が見たいと思ったものだけを写しだす。
「悪いことはするな」と言えば「悪いこと」に目がいく。
「良いことをしよう」と言えば「良いこと」に目がいく。
これらは同じことを言い方を変えているだけなのに、眼に映るものが違うのだ。

同じように
「見捨てるな」という言葉は「見捨てている行為」に目がいってしまう。
では「見捨てるな」という言葉を使わずに込められている言葉を伝える方法はないのだろうか?
それが「言葉の変換」である。

体が健康になるということはどういうことか?
それは「強い薬」が「弱い薬」に変わり、最終的には「薬」すら必要なくなることだろう。

クラスを成長に導く(健康にしていく)ためにはどうすればいい?
それは体が健康になる道筋となんら変わりないはずだ。
「一人も見捨てない」という「強い薬」を和らげる言葉をもつことができているか?
それを考えていかないと、常に強い薬(一人も見捨てるなという言葉)に頼ることにはなりはしないか?

「一人も見捨てない」
という言葉をいかに削ぎ落としていくか?
それを考えている教師が「見捨てるな」と語ることは「薬」となるだろう。
しかし、それを考えずに、ただ振り回していては「毒」となるだろう。



いいたいこと


「一人も見捨てない」 という言葉は絶大な力をもっている。
だからこそ「集団」を「子ども」をそして「教師」をも苦しめる「毒」になりうる。 
その「毒」をいかに「薬」に変えていくのか? 
そこを問い続けたい。

「一人も見捨てない」
という言葉をどう掘り下げ、自分の中に落とし込むか?
それを考え続けることが「毒」を「薬」に変える唯一の手立てなのだと思う。

人類が「毒」から「薬」を生み出し、多くの人を救ってきたように、この言葉で救われる人はたくさんいる。
私もその言葉に気づきをえた1人だからよくわかる。

「一人も見捨てない教育を目指している」
これはやすやすと語ることができないことだ。
そんな風に思える境地に立った人こそ、それを語る資格がある人なのだろう。

そして、最後までこれを本気で読んでいるあなたは、まちがいなく語る資格がある。
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