一斉指導至上主義からの脱却への考察

第二部 学び続けていける授業を支えるもの

<目次> 

1、学び続けていける授業の構築は可能か?
2、学び続けていくために必要な条件とは?
(1)仲間がいること
(2)成長の実感ができること 
(3)失敗してもやり直せること
3、学び続ける授業を構築するために教師がしなくてはならないこととは?
4、「学び続けることの価値」をどう子どもに伝えていくのか?


1、学び続けていける授業の構築は可能か?
 
学び続ける授業を構築するには「思考の深まり」が必要不可欠です。
そして、それが深まり合い、つながり合うためには「良質なインプット」と、「前向きなアウトプット」が絶えず繰り返されていくことが大切です。

良質のインプットが前向きなアウトプットをうむ。 
そして前向きなアウトプットがインプットしたいという意欲につながる。 
この繰り返しが「思考の深まり」を営んで行くのです。

そのような授業をいかにつくりあげるか?
多くの教師はその大きな課題を「うまくコントロールする(上手に教えること)」によって乗り越えようとしました。
しかし、それはなかなかうまくはいかないものです。
それを乗り越えるためには教師が「いかに教えるか」から「いかに自立した学び手を育てるか」という価値転換を図る必要があります。
しかし、それはただの「ほったらかし型授業」に陥る危険性もはらんでいるのです。
これはどの教師であれば誰もがぶつかる壁なのではないでしょうか?
この壁にぶつかった教師は途方にくれます。
自立を目指しながらも自立を奪っている。
そんな矛盾に苛まれるからです。

では、このような状況に陥っても「学び続ける」授業の構築は可能なのでしょうか?

この答えに対する私の答えは「YES」です。
しかし、そのためには今まで日本で行われてきた学校教育という固定概念をもう一度ゼロベースに戻して思考することが必要です。
伝統や風習、歴史や経験から一度離れて、根本から「教育について」「人の学びについて」考えていくことで様々なことが見えてきます。
では、「学び続ける授業の構築」のために必要なものとはなんなのでしょうか?
以降はそれについて考えていきたいと思います。


2、学び続けていくために必要な条件とは?

学び続ける授業を構築するためにまず考えなければいけない問いがあります。
それは「人が学び続けていくためには何が必要か?」という問いです。

人はどういう時に学びが加速するのでしょうか?
人の学びはどういう時に失速するのでしょうか?
あきらめてしまう時と、もう一歩踏み出そうとする時。
両者の違いとはなんなのでしょうか?
人が自然にやり続けてしまう時に存在するものとはなんなのでしょうか?…
これらを明らかにしないことには、学び続けられる授業を創りあげることなどできないでしょう。

人が学び続ける力をつけるために必要なものは? 
自分自身の経験、人との対話、子どもたちとの日常の中での気づき…
様々なものをつなぎ合わせていくと必要なものが浮かび上がってきました。

学び続けていくために必要なこと。
それは
「自分自身に対する自信」です。

「自分に価値がない」
「やっても無駄だ」
自分自身に対してこのように感情を抱いてしまった時、人の歩みは止まってしまうものです。

「自分ならできるはずだ」
「自分も成長できるはず」
こう思えたならば、どんなにつらくても一歩踏み出すことができるでしょう。

しかし、誰もが常に自信をもって行動できるわけではありません。
誰でも恐れに縛られ、足が踏み出せなくなる時があります。
そんな時にも、人が一歩踏み出せる環境とはどんな環境なのでしょうか?


つまずいても、落ち込んでも「自分自身に対する自信」を失わずに学び続けていける。
そのために必要なのは3つあります。

それは
  
(1)仲間がいること 
(2)成長の実感があること 
(3)失敗してもやり直せること

この3つがあれば、人は自信を失わずに一歩踏み出せるのではないか?
私はそう考えました。
 


(1)仲間がいること

人は孤独に歩むことはできないものです。
自分のことを理解してくれて、温かい言葉をかけてくれる人が存在する。
それだけで人は自分自身に対する尊厳を保ち続けることができるのです。

いじめを受け、八方塞がりになった子が苦しんだ末に「死」を選ぶ。
これは人が孤独の中で生き抜くことの難しさを示しています。
人は弱いものです。
どんなに強い人であっても、心の中の悩みがいつのまにか増大し、飲み込まれていくこともあるでしょう。
その時、飲み込まれずに、踏みとどまり、前向きに学び続けられる自分であるか?
その明暗をわけるもの。その大切な一つが「仲間」の存在だと思うのです。

数年前、尊敬するある方からこのようなメールをいただきました。
《引用》
「巡り合えば知人となり
 語り合えば友となり
 共に汗を流せば仲間となる」

こんな言葉があります。
子どもたちにとって大切なものは数多くあるかと思いますが
「友」の存在は非常に重要です。
仲のいい友達や、ウマがあう親友も大切ですが
本当に大切なのは、同じ目標に立ち向かい切磋琢磨し合う
「盟友」であると考えています。
《引用終わり》

これはまさにそのとおりだなぁと感じます。
支えあって、共に汗を流した「仲間」がいること。
その仲間と言葉をかけあうことで、悩みに飲み込まれずに踏みとどまる力が生まれるのでしょう。

つらい時、苦しい時に声をかえてくれる仲間。
自分を認めてくれる仲間。
自分を叱ってくれる仲間。
そばにいてくれる仲間。

そういう存在がいること。
これが人が学び続けていくための大切なパーツの1つでしょう。 


(2)成長の実感ができること

人が学び続けるために必要な条件。
その2つめとしてあげられることは「成長の実感」でしょう。
前よりも自分が成長している。
それを感じられる人は、自然と次の学びへの一歩を踏み出します。

逆に成長が実感できない感じられなければ人の足は止まります。
いくらやっても意味がない。
自分にはできないんだ。
そう思った時人は絶望に陥ります。

ドストエフスキーは「死の家の記録」の中で、最もつらい拷問について語りました。
それは半日かけて穴を掘り、半日かけて掘った穴を埋める。
そんな生活を延々と繰り返すと人は発狂し、死に至るというのです。

人は意味のないこと、成長の感じられないこと、感謝もされないことが延々と繰り返されていくことに耐えられない生き物なのだ。
この例からそれがわかります。

自分が少しずつでも成長している。
自分の成長が誰かの役に立っている。
自分の行動が次の何かにつながっている。

そのように感じることができた時、人は学び続けることができるのでしょう。
このような理由から「成長の実感」は学び続けるためには欠かせないパーツの1つだということがわかります。 


(3)失敗してもやり直せること

仲間もいる。
一歩踏み出すことで成長する自分もイメージできる。
しかし、その一歩を踏み出す勇気が出ない。
誰もがそんな時を経験しているのではないでしょうか?
(1)仲間(2)成長の実感
という条件を満たしても一歩先へ踏み出せない。
その原因はなんなのでしょうか?

そこで人の学びをとめている原因。
それは 「恐怖」です。

 失敗したらどうしよう。 
できなかったらどうしよう。

このような考えが頭の中を支配した時、人の歩みは止まります。
仲間がどんなに
「やってみようよ」
「きみならできるよ」
と励まそうと、一歩踏み出せないものです。

このような状態に陥った時に一歩を踏み出す勇気をくれるものとはなんでしょうか?
それは「失敗してもやり直せる環境」です。

あなたは重要なプロジェクトを任されているとします。
どちらの言葉かけなら勇気をもって一歩踏み出せるでしょうか?

A 絶対失敗するなよ。失敗したらもうおしまいだ。絶対成功させろ!

B 怖がることはないよ。たとえ失敗しても取り返せる。思いっきり力を試しておいで!

Aの言葉かけは、失敗できないという恐怖が緊張を生み、体を固くします。
一方、Bの言葉かけは、安心して一歩を踏み出し、リラックスしながら自分の力を試すことができるでしょう。

偉大な発明家、エジソンが電球を発明した時のエピソードは有名です。
彼は何度失敗しても、「失敗ではない、それがうまくいかないということを発見したのだ」と語ったと伝えられています。
では、エジソンが失敗したことすら成功と捉えることができたのはなぜでしょうか? 

もちろんそれは何度も実験を繰り返すことができたからでしょう。 
仮説がたとえ間違っていても、実験がうまくいかなくても何度も挑戦できた。 
だからこそ、彼は常に一歩踏み出し続けられたのです。

「たった1回で結果を出しなさい」
このように言われたら人は恐怖で歩みを止めます。

「何度もやる中で、身につけていこうよ」
「間違っても大丈夫。チャンスはまだあるよ」

このように言葉をかけてもらえる環境。
それが人が学び続けていくために必要な最後のパーツです。


3、学び続ける授業を構築するために教師がしなくてはならないこととは?

(1)仲間がいること
(2)成長が実感できること 
(3)失敗してもやり直せること

これが存在するのが「学び続けていける」授業です。

そこに至るための「教師の役割」は2つあります。 
1つ目は、先ほどの「3つが存在する授業」を構築すること。 
子どもたちが学校で過ごす大半は授業です。
この時間で子どもたちに「学び続ける感覚」をつかませていく。
それが大切なのです。
子どもたちに話し合う場面も与えず、板書を写すのみで「仲間との関わり」を実感させることはできません。
ただ、席に座っているだけで時間が過ぎていく。そんな授業では「成長の実感」などできません。
失敗を失敗と認識できる。そんな場が授業にあるでしょうか?

教師は常にその視点をもって授業をつくっていかねばならないのです。
(具体的な授業づくりについては「学びのカリキュラムマネジメント」の章で詳しく説明します)



そしてもう1つ。
教師にしかできない大切なことがあります。
それは「学び続けていくことの価値を語り続けること」です。


「語る」とは「かた(ちづく)る」ことだと言われます。 
子どもたちにイメージできるように「形にして」「わかりやすく」語りかける。 
その営みなしに、ただ授業の構築のみを目指しても意味はありません。 
「教師の語り」抜きでは、どのような授業もすぐに「ほったらかし授業」に形を変えてしまうのです。 


4、「学び続けることの価値」をどう子どもに伝えていくのか?

しかし、ここで、大きな問題があります。 
それは
「学び続けることの価値」をどう子どもに伝えていくのか?
という問題です。

幼い子どもたちに「学び続けよう!」と直接的に語りかけてもても伝わりにくいものです。 
なぜなら、それは「大人側の言葉」だからです。

子どもたちは常に「今」を生きています。
それゆえ、子どもたちは具体的に未来を思い描けないのです。
それは当然です。
生きてきた経験が少ないのですから。
「今」という「点」をつなぎ合わせていく力。 
それが未来を感じ取る力なのです。

「未来を感じ取る力」
これは大人なら誰も獲得している能力です。 
「過去の経験」が長くなればなるほど「今」とつなげて物事を見ることができるのですから。 
そして、それは「今」から「未来」を見つめることに応用可能です。

常に「今」を生きている子どもたち。 
この子たちに、いかに「学び続ける授よう!」と熱く語っても伝わりません。
この言葉は幾多の苦労、試練、障壁を乗り越えた人のみが感じ取ることができる言葉なのです。

では、子どもたちに「学び続ける」ことの価値をどのように伝えていけばいいのでしょうか?  
この問いにぶつかったのは、私がはじめて小学校1年生を担任した時のことです。
中学校教師を経て、小学校教師になった私。
小学校でも高学年の担任経験しかありませんでした。

高学年、ましてや中学生にもなれば抽象的概念が伝わります。
彼らは彼らなりに経験を積んできています。 
彼らには「学び続けよう」という直接的表現で十分伝わったのです。  

しかし、小学校一年生にはそうはいきません。
「学び続けよう」
この言葉を何度語っても幼い彼らの頭には「?」が浮かぶのです。


「学び続ける」 
この言葉を小学校一年生にも伝わる言葉に置き換えて語らなければ…。 
私はそんな壁にぶつかりました。  
小学校一年生にも伝わる。 そして大人になってと使い続けられる言葉なんてあるのでしょうか?

何度も彼らと対話を重ねていくうちに、浮かび上がってきた言葉。
それが「かしこい」という言葉です。 
この言葉の素晴らしいところは、あらゆる概念が凝縮してつまっているところです。

先ほどまで述べてきた

歩みを止めずに学び続けられる人。 
仲間と共に歩みを進められる人。 
成長を自分の力に変えていける人。 
失敗しても再スタートがきれる人。  

これらはすべて「かしこい人」といえるのでしょう。

さらにすごいのはこの「かしこい」という言葉は1年生の子どもたちにも伝わる言葉なのです。 
 たとえ一年生であっても
「かしこくなろう!」
と言うとみんなが力強くうなずいてくれるのです。
「?」は生まれない。概念としてストンと落ちる言葉なのです。


「学び続ける」という価値を「かしこさ」と言葉に変換して伝える。
「教室という場はかしこくなる場」 
これを伝え続けることで子どもたちの心に「学び続けることの価値」を刻んでいくのです。 

 

(第三部 「かしこさ」は形にできるのか? へと続く )